ウエストワールド(1973年アメリカ)

Westworld

大人が楽しむために開園した、滞在型巨大遊園地「デロス」を舞台に、
その遊園地でエキストラとして稼働する、人間そっくりなロボットたちが、管理者側から制御不能になり、
やがてレジャーで訪れた人々に襲いかかり、殺人ロボットと化していく姿を描いた前衛的なサスペンス・スリラー。

監督は、後に人気小説化として世界的人気を誇ったマイケル・クライトンで、
彼は60年代から小説家デビューし、小説家として執筆活動をする傍ら、医学博士の学位を取得し、
自身も研究者として民間の研究所に勤務していた経歴があり、70年代は映画界でも製作者として活躍していました。

そんな中で製作された本作は、当時としてはかなり前衛的な内容の作品であり、
主演のユル・ブリンナーの確信犯的とも言える、非人間的なシルエットが恐怖を盛り立てている。

映画の出来自体は、どこかカルト的で凄い良い出来だったとまでは評せないけど、
これはこれで70年代に流行したカルトSF映画の一つとして、映画界に痕跡を残した作品として印象的だ。

科学者がプログラムを組んで、日常のメンテナンスを総指揮する立場であり、
「デロス」の3つのテーマに沿って、大人が楽しめるようにロボットを操作するのですが、
チョットした異常の兆候をつかむと、管理サイトにいる科学者は即座に経営側に休業を進言するも、
どうやらアッサリと却下されたようで、おそらく「お前たちで知恵を出して、工夫をしなさい」とでも言われたのでしょう。
結局は営利目的が先行してしまい、大事なポイントで引き下がるタイミングを逸した結果、トンデモないことになります。

ある意味で、この一連の管理者側のエゴがロボットを制御不能なものにして、
次々と大惨事をもたらしていくというセオリーは、『ジュラシック・パーク』につながるものがあり、
僕は本作を最初に観た時から感じてはいたのですが、本作は『ジュラシック・パーク』の原型のような作品だ。

映画は「デロス」でも、西部劇の世界に飛び込んだ男2人の姿を中心に描くのですが、
この他にも中世ローマと古代ローマの世界が再現されており、これらは地下通路で管理サイトにつながっている。

実際、命からがら殺人鬼と化したユル・ブリンナーから逃げながら、
西部劇の崖のような丘を越えて、いつしか中世ローマのセットから、古代ローマのセットへと駆け巡ります。
映画は序盤から、これら3つの世界をほど良く、バランス良く並行して描いており、この辺は上手い。

しかし、マイケル・クライトンの才気とヤル気はヒシヒシと伝わってはくるけど、
正直、演出はあまり特筆するものがない。プロダクションは適任者がいなくてお願いしたのかもしれないが、
全体にメリハリが無くて、割りと平坦に描いてしまっていることと、ロボットから追われるエピソードは
もっともっと観客にとってストレスになる撮り方はできただろうと思う。今一つ、映画全体は上手くいっていない。

もっとも、この映画を観て「デロス」の魅力を強く感じた人って、どれくらいいたのだろうか?

疑似体験を求める人々がこういったレジャーを成り立たせるのだろうけど、
この「デロス」では、結局は大人の快楽のためであったり、ガンマンになった気分で
ならず者のロボットを“殺して”、その感覚を楽しむという、通常では考えられない発想です。
ただ、この映画を観て感じるのは、それだけ人間の欲というのは、生活を向上させるものであると同時に、
時に暴走して、底知れぬものを追い求め始め、トンデモないことを具現化するという恐ろしさそのものだ。

マイケル・クライトンはこの異様な世界観を、淡々と描いているのですが、
映画の冒頭から「デロス」を楽しんだ人々のインタビューを映して、このコンテンツにすっかり魅せられ、
衝撃的なものとして受け入れられようとしている状況を描いている。こういう映画の始まりも、当時としては希少だ。

前述した、ユル・ブリンナーはかつて自身が出演した『荒野の七人』のパロディ的な芝居をしてますが、
光る眼でターゲットをサーチしながら、無表情に追っていく姿は映画に緊張感を与えており、
彼は自身の代表作を『王様と私』と考えていたようですが、僕の中では地味に本作かもしれません。

観ていて思ったのですが、本作でのユル・ブリンナーの怪演を
『ターミネーター』でアーノルド・シュワルツェネッガーは参考にしたのではないかと感じます。
無表情かつ地下通路を走るブーツの音を強調しながら、無尽蔵な体力を使って追ってくる姿は恐怖そのもの。
でも、これって、まんま『ターミネーター』ですよね。ロボットであるという点でも、共通していますし。

ただ、個人的には強酸をかければロボットが弱るという設定そのものと、
クライマックスでもっとロボットが不死身な感じでしつこく襲いかかる展開を想像していたので、
思いのほかアッサリと映画が終わってしまうあたりが、やや拍子抜けした感じになってしまったのが残念。

それから、正直に言うと、ユル・ブリンナーを除くとキャスティングがあまりに地味過ぎた。
後に『カプリコン・1』にも出演したジェームズ・ブローリンはもとより、ロボットに最後まで追い回される
西部劇の世界でのレジャーを選択したリチャード・ベンジャミンも、スター性を感じさせる雰囲気は皆無。
(まぁ・・・リチャード・ベンジャミンは後に映画監督としての方が、成功したので仕方ないですけど...)

リチャード・ベンジャミン演じるピーターは、友人のブレインとレジャーのために、
大金をはたいて「デロス」に訪れますが、映画の冒頭で印象的だったのは、やや懐疑的な表情があったこと。

しかし、そんな彼がすっかり「デロス」の楽しみに染まってしまったのは、
ユル・ブリンナー演じるロボットを酒場で撃って倒したという快感と、娼婦ロボットと一夜を共にするという、
現代では共感を得難いことがあったからのようで、これはこれで70年代当時に人々が思い描いていた、
近未来像と「デロス」が近しいところにあったからこそ、センセーショナルな映画として受け入れられたのかもしれない。

映画の内容が古臭いというよりも、コンプライアンスの意識が高まった、
現代社会の中で、本作のような映画が登場しても、ひょっとするとストレートに受け入れられなかったかもしれない。

本作で描かれた人間がプログラムしたロボットが暴走して、
人間社会にとっての脅威となるというテーマは、マイケル・クライトンの大きなテーマであり、
生物学者でありながらも、元々は人類学者であった彼のバックグラウンドが融合されたテーマのようですね。

やはり、いくら優秀な仕組みを作っても、いくら万能なシステムを構築しても、
最後は操るのは、やっぱり人間。人間の判断をできるだけ排除しても、ゼロにすることなどできず、
むしろ志向して判断できるからこそ人間の英知なのですが、時にその英知が暴走することもあるということです。

本作でも、マイケル・クライトンが訴求しているのは、本来は危機管理であったはずで、
人文科学的領域が背景にあった彼だからこそ、人間のやることなすことの危うさを理解していたはずで、
故障の報告を受けながらも、「デロス」継続を指示し続けた管理者(経営者)へのアンチテーゼと解釈できる。

しかし、しかしだ(笑)。
この映画を観た限りだと、この危機管理意識に対する警鐘も弱いから、チグハグに言える部分はある。

(上映時間89分)

私の採点★★★★★★★☆☆☆〜7点

監督 マイケル・クライトン
製作 ポール・N・ラザルス三世
脚本 マイケル・クライトン
撮影 ジーン・ポリト
音楽 フレッド・カーリン
出演 ユル・ブリンナー
   リチャード・ベンジャミン
   ジェームズ・ブローリン
   ノーマン・バートールド
   アラン・オッペンハイマー
   ビクトリア・ショウ
   スティーブ・フランケン