椿三十郎(1962年日本)

61年の『用心棒』の続編とも言える作品で、『用心棒』では桑畑 三十郎と名乗っていた武士が、
本作では椿の花が目についたことから、咄嗟に「椿 三十郎...もうすぐ四十ですが」と名乗って活躍する姿を描く。

三船 敏郎が演じた主人公の三十郎は、『用心棒』のときよりも、ずっと人間臭くて泥臭い。
通俗的な表現をすれば、人情味溢れる男で、時に毒舌を吐くがユーモアがあって魅力的なキャラクターだ。
それでいて、見張りを見破るシーンにあっては、「バ●野郎! さっきのは3匹の猫だが、今のは1匹の虎だ」と
なんとも絶妙な形容をする台詞を言い放ち、桑畑 三十郎の頃と比べると格段に語彙力が上がったような気がする。

映画の出来としては、黒澤 明であれば、これくらいは標準的な水準のように思える。
確かに映画のクライマックスにある、武士2人が対峙するシーンでは、研ぎ澄まされた緊張感があり、
そこからの大量の“血しぶき”の演出は、日本映画史に残る超有名なラストですが、僕は少々うがった見方をするので、
映像表現として好奇心に満ち溢れた黒澤は、この“血しぶき”をやりたかっただけの映画のように映ってしまった。

つまり、このラスト以外には主人公のキャラクターの魅力くらいしか残らない、というのが正直な感想。

そりゃ、この主人公のキャラクターの魅力だけでも十分と言えば、それはそうなんだけれども、
他の黒澤 明の監督作品と比較すると、本作のカリスマ性や優位性というのは、これといって見当たらない。
当時の黒澤 明としては分かり易く単純明快なエンターテイメントを志向していたような気がするのですが、
本作はどこかアイデア一発勝負のような感じで、映画が悪い意味で軽く映る。いや、それでも高水準の作品だけどね。

人質に捕られながら、飄々(ひょうひょう)とした感じで口を挟んでくる小林 桂樹をはじめとして、
本作で描かれる登場人物はどちらかと言えばコミカルに演じていて、映画の中盤なんかは完全にコメディっぽい。

どれもこれも、主人公を三船 敏郎がドシッと構えて演じたからこそ、映えたキャラクターが多いですけど、
どこか砕けた感じの人物が多い中で、常に緊張感溢れる“仕事人”として主人公と対峙する仲代 達矢演じる武士も
実にカッコ良く、何度観てもクライマックスの主人公との対峙シーンは、キリッとした雰囲気で映画が引き締まる。
これは三船 敏郎だけではなく、仲代 達矢をキャスティングできたということが、本作にとって大きかったかもしれない。

欲を言えば、加山 雄三演じる若頭みたいな連中が井戸端会議を開いていて、
その内容に聞き耳を立てていた主人公が、彼らにアドバイスしたり、手を貸したりするというのが軸になりますが、
個人的には何故に、この連中の危なっかしさに触発されるように、介入するというという展開なわけで、
何故に彼らの助力になろうと実際に行動し始める、主人公の行動の動機をもっとしっかり描いて欲しかったなぁ。

人助けなんて、そんなもんと言えば、そんなもんかもしれませんが...
この三十郎の行動には何か大きな理由があった・・・という感じならば、もっと“世直し屋”のカラーが強くなりますねぇ。
情に厚そうな三十郎からすれば、この連中に突如として手を貸すとは考えにくく、何か理由があった方が良い。

それにしても、三船 敏郎は実際にチャンバラ・シーンをもって、剣の達人であることを
観客に納得させるようなシーンを見事に演じ切るからスゴい。だからこそ、黒澤 明の映画は輝いていると思う。

言葉は悪いが...これで三船 敏郎がモタモタしたチャンバラ・シーンを演じていれば、
三十郎のキャラクターや腕前が、まるでウソに感じられてしまうし、結果として映画自体が胡散クサくなってしまう。
そこを黒澤 明と三船 敏郎のコンビは見事にクリアし、三十郎が次々と仕掛ける“工作活動”が効果的になる。
剣の達人であり、数多くの修羅場を経験しているであろう、凄腕の武士だからこそ出来るワザと言っていいくらいだ。

さすがに1分以内に30人の相手の武士を、次から次へと斬っていくのを映像として見せてくれれば、
三十郎だったら、これくらいのことはやってのけるだろうと察するし、三十郎の言うことを聞いていれば、
間違いなく上手くいくと納得させられる加山 雄三演じる武士の心情もよく分かる。人間離れしているわけではないが、
剣の使い手としては達人という腕前に相応しく、考える戦術としても相手を上回るだろうと信頼を集める人物に見える。

そして本作の良さは、一切の無駄を許さないくらいシェイプアップされた映画の尺でしょう。
『用心棒』の続編として黒澤 明らにも相当なプレッシャーがあったのではないかと推察されますが、
本作はより大胆に殺陣シーンを表現しながらも、一切無駄なシーンが無い。実にコンパクトにまとまっている。
これは作り手が撮りたい内容を具現化する力があって、映画のビジョンが明確であったことが大きいのでしょう。

「テメェらのやることは、危なっかしくて見てらんねぇ!」と言い放つ三十郎はカッコ良く、
傑出したキャラクターですが、この三十郎が助力する動機付けがしっかり描かれていれば、もっと良かったのに・・・。

07年に同名映画としてリメークされて、興行的に大失敗してしまいましたが、
僕はやっぱり本作のリメークは無謀だったと感じる。黒澤 明と三船 敏郎のコンビだったからこそ成立した作品であり、
クライマックスの凄まじい尋常ではない“血しぶき”など、強烈なインパクトを持って大衆に投げかけることができた、
1962年という時代だったからこそ成立したエンターテイメントだったと言っても過言ではないと思いました。

リメークを全否定する気は毛頭ありませんが、やっぱり企画として難し過ぎたのだろうと思います。

正直言って、“血しぶき”というアイデアが陳腐化した2007年という時代に、
同じストーリーで違う役者が演じ、違うディレクターが演出したとなっては、成功する確率はとても低いでしょう。
言い換えると、当時の黒澤 明らはそれだけ日本映画界ではパイオニアとなる仕事をやっていたということです。
それを、ほぼオリナジルのままリメークしようということ自体が難し過ぎたと思います。アレンジしにくかったでしょうし。

63年の『天国と地獄』で黒澤 明の色彩の感覚は、モノクロ映像の中で結実しますが、
本作にも屋敷の庭に流れる小川に、椿の花が流れてくる光景を映すシーンがありますが、これも実に見事。
白の椿の花が流れるシーンにしろ、モノクロ・フィルムであるというのに実に鮮やかな黒澤 明の色彩が炸裂する。

椿の花が流れてくるのと、ほぼ同時に隣家から多くの侍たちが流れ込むように
汚職に手を染めていた上老たちが隠れている屋敷に入ってくるシーンが、また痛快な展開で何とも印象的だ。

モノクロ・フィルムで撮影された作品でありながら、ホントに白が映える撮り方をしていて、驚かされる。
当然、既にカラー・フィルムで撮影された映画が登場した後ではありましたが、黒澤 明の強いこだわりを感じさせます。
おそらく、当時の黒澤 明はカラー・フィルムで映画を撮ることに、そこまで強い興味はなかったのではないだろうか。

これはクライマックスの“血しぶき”のシーンも同様で、モノクロ・フィルムで出来る映像表現の限界に
挑戦しようとし続けていたのではないかと思えます。これは黒澤 明にとって、大きなテーマだったのかもしれない。
(さすがに黒澤 明もこの“血しぶき”はやり過ぎだったと、自分で感じていたらしいですけどね・・・)

まぁ・・・もっとも、黒澤 明は本作のことを『用心棒』の続編だとは思っていなかったらしく、
そもそもどんなに自身の監督作品がヒットしようとも、続編を製作するという考えは全く持っていなかったようだ。
本作も『用心棒』で確立した三十郎という武士のキャラクターを生かして、山本 周五郎の『日々平安』を原作として、
この原作の世界に三十郎をそのまま吹き込むという、ある意味では奇想天外な発想で映画を撮ったらしい。

当時、『日々平安』の熱心なファンがこの黒澤 明の発想をどう思っていたかは不明ですが、
それくらい『用心棒』で作り上げた三十郎というキャラクターがとても魅力的なものであったという証左だし、
黒澤 明の人気作として未だに愛される作品であることを思うと、この黒澤 明の判断は間違っていなかったのでしょう。

しかも、『用心棒』のときよりも大胆にコメディのエッセンスを加えて、エンターテイメントに徹している。
こういう仕事が出来たからこそ、黒澤 明の監督作品は愛されたのだろう。やっぱり当時から、黒澤 明は別格でした。
50年代から国際的な評価も高かったからこそ、世界の映画に目を向けており、他を寄せ付けない高みに居ました。
60年代後半以降は、どこか苦労した印象があることは否めませんが、日本映画界で唯一無二の孤高の存在です。

それは、こういう仕事をサラッとやってのけてしまう演出家としての器用さがあったからこそでしょう。

(上映時間96分)

私の採点★★★★★★★★☆☆〜8点

監督 黒澤 明
製作 田中 友幸
   菊島 隆三
原作 山本 周五郎
脚本 菊島 隆三
   小国 英雄
   黒澤 明
撮影 小泉 福造
   斎藤 孝雄
美術 村木 与四郎
音楽 佐藤 勝
出演 三船 敏郎
   仲代 達矢
   小林 桂樹
   加山 雄三
   団 令子
   志村 喬
   伊藤 雄之助
   入江 たか子
   田中 邦衛