東京物語(1953年日本)
この映画について云々するのは、なんだか自分にはおこがましいと思っちゃうのですが・・・
こういう内容の映画を国際的にも高く評価され、未だに敬愛される作品であることに感動しちゃうなぁ。
日本映画を代表する監督と言えば、黒澤 明か小津 安二郎かというくらいですが、
そんな小津 安二郎の代表作と言えば、やっぱり本作か『晩春』か、或いは遺作となった『秋刀魚の味』だろう。
僕も全ての小津 安二郎の監督作品を観たわけではなく、偉そうなことは言えないが、本作は飛び抜けていると思う。
それはロー・ポジションから撮るという小津 安二郎の特徴だけではなく、
随所に日常の空気の普遍性というものを強く感じさせる画面だからこそ、海外でも高い評価を得たのだと思う。
あざといズーミングも無ければ、アップカットも必要最小限として、何か小細工しようとする撮影・編集もない。
あるのは、日常の風景としての実に穏やかで緩やかに流れる時間と、チョットした人々の雑談の数々だ。
でも、これらは万国共通のもので平々凡々。よくあるからこそ、観客の多くが実に落ち着いた心境で映画を楽しめる。
これはこれで、日本映画がかつて得意としていた、古き良き懐の深さと強みであったものだろう。
2011年に本作のデジタル・リマスタリングを実施して、画質がかなり良くなっています。
オールドな映画ファンには不評な部分もあるのかもしれないけど、これはこれで僕は良い仕事だなと思った。
やっぱり未亡人役の原 節子のどこかエキゾチックな美しさであったり、1950年代前半の東京の街並みであったり、
画質が良くなったおかげで、本作が残したヴィジュアルを永続的に保存できるようにした功績はデカいと思います。
それだけ本作は日本映画界が誇る名画であり、且つ歴史的な映像資料としての価値もある作品だと思うからです。
映画は東京に暮らす町医者を営む父を持つ一家の自宅を舞台に、故郷の尾道から高齢の両親が上京して、
数日間家に宿泊するために、両親に東京観光させようとするものの、忙しさから子どもたちは距離を置きたがる。
そんな中で、熱海の温泉旅館に行くように仕向けられたりするものの、ゆっくりと過ごせないジレンマを描きます。
現代であれば、80代とか90代でも自力でバンバン動き回れるほど元気な高齢者も少なくはないので、
わざわざ上京してきたとは言え、健康状態や方向感覚に問題ないのであれば、「自分で行ってきて」で終了かも。
しかし、本作で描かれる笠 智衆と東山 千栄子の両親はそこまで元気という感じではないし、ほってはおけない感じだ。
しかし、名優の杉村 春子演じる理容師を営む妹なんかは、最初っからウザったい気持ちを
表に出している雰囲気で、どことなく感じが悪い。でも、その塩梅が実に上手くって、いざ遠く離れた土地で生活を持ち、
ましてや理容師として活躍するようになった子どもの一人であれば、両親に来て欲しいとは思っていないのかも。
この辺は個人差もあるのだろうけど、子どもが多かったという時代性もあるだろうし、親との距離感の差もあるだろう。
この妹の姿を観ていると、小津がどこか達観したように人間観察をしているのがよく分かる。
両親が来たら来たで、前述したようにウザったいなぁという気持ちが表に出た態度をとるし、
いくら危篤の電報を受けたと言っても、「兄さん、喪服持ってく?」と聞いちゃうなんて、スゲー無神経(苦笑)。
しかし、一転して容態が悪化した母を目の前にした途端、突如として感情が爆発したように泣き始める。
賛否はあるとは思うけど、僕はこれは“ウソ泣き”ではないと思うし、この矛盾した部分があるのが人間らしさだと思う。
一転して亡くなれば、母の持ち物が欲しいと主張し始めたりと、相変わらずの自己主張を始める。
この変わり身の速さが彼女の性格なのだろうけど、こういう姿を描くのは小津の“人間観”とでも言うべきなのかも。
ここからは僕の勝手な想像なんだけど、この映画で小津が描いていることって、それなりに歪んでいる。
日常の風景ではあるんだけど、このドラマで描かれる人間関係は歪んでいて、複雑に感情が絡み合っている。
それは、第二次世界大戦の余波を引きずりつつも、終戦から僅か7・8年という年月で、急速に近代化していき、
家族観も急速に変容していく様を、どこか達観したような見地から、当時の家族観を描いているのではないかと思う。
一旦、親から子が離れてしまえば、一気に子どもは親のことを構わなくなり、新しい生活に定着する。
そうすると、親や親戚との関わりは希薄になり、個人主義が優先されるようになる。これは戦前には無い感覚だろう。
小津がこういった新たな家族観を肯定していたのか、否定的だったのかは分からないけど、少なくとも本作の中では
どちらに寄った視点ではなく、こうして親世代が晩年を迎えていく輪廻のようなものを描いているように見える。
これは大家族が当たり前という時代から、核家族という単位に変わりつつある、転換期を捉えていることの裏返しだ。
それでも、本作で最も印象的なのは笠 智衆演じる祖父が放った一言であって、
「自分たちが育てた子どもよりも、他人である貴女の方がよっぽど優しくしてくれる」という一言だろう。
言わば、嫁いだ女性が年老いた義理の両親の面倒を看るという、日本の古くからの家族観を象徴する一言だが、
これはこれで昭和な価値観ではありますが、当時の高齢者の素直な感想を吐露させた一言だったのかもしれない。
小津の本音は分かりません。しかし、何が正しくて、何が間違っていると嘆くわけでもなく、
こういう価値観の変容こそが、時代の変遷であると言わんばかりに、どこか達観したような視点で描きます。
尾道から遠路はるばる子どもや孫の顔を見に上京してきた老夫婦の目にどう映るのかという論点が切り口です。
それで何が言いたいわけでもないのだろうが、年齢を重ねることで生じる、
子ども世代や孫世代との感覚のズレを実感し、すっかりと年をとり、状況が変わってしまったことを聡かのように、
笠 智衆演じる祖父が「ついに宿無しになってしもうた」と吐露するシーンに、何とも言えない感情を抱かせる。
ただ、これも含めて小津はまるで、「いつの時代も、こうして受け継がれるのだ」と言わんばかりに
どこか少し距離を置いて観察するかのように描いているのが特徴的で、この感覚はヨーロッパの映画のようだ。
おそらく、こういう視点を感じることこそ、小津 安二郎の監督作品が国際的に評価される所以なのではないだろうか。
まぁ、小津の映画全般に言えることではあるけれども、映画的興奮を求め続けて、
次第に欧米化していった黒澤とは対極的な感じで、小津の映画はどこか淡々としていて俯瞰的な見方をしている。
劇的な展開も無ければ、何か強いメッセージを感じさせる内容でも、心揺さぶられる感動作という感じでもない。
あくまで自然体、そして庶民的な日常生活の一コマを切り取ったような映画が多く、賛否が分かれるところだろう。
しかし、僕はこれはこれで日本映画の良心的な存在だと感じるし、
どんな形であれ、こうして当時復興に努めようとしていた日本の中で、普遍性を意識して映画を撮り続け、
結果として国際的にも高い評価を得ている小津 安二郎という存在は、もう現れることのない孤高の監督だと思う。
いろいろな意見はありますけど、本作の中で印象的なのは露骨に嫌な態度を示す杉村
春子、
そして両親から感謝を述べられつつも、「ワシらを気にせんで、早く良い男(ひと)を見つけなさい」と、
それはそれで余計なお世話なことを言われても、嫌な顔一つせずに一緒に過ごした原
節子の2人の女優でした。
杉村 春子演じる理容師は、地元の人たちに好評で弟子のような従業員を雇うなど、
まるで女性の社会進出を象徴するかのように当時のビジネス・ウーマンとして成功を手にしつつある様子だ。
家庭でも亭主よりもイニシアティヴをとっている姿が印象的で、それまでの“オンナは家庭を支えるもの”という
旧時代的な考え方ではなく、男たちを手玉に取るかの如く、押しの強い性格丸出しなのが最新の女性像という感じ。
いらんこともいっぱい言ってしまうんだけど、彼女の姿を観ていると、
小津も彼女を否定的に描いているというわけではなく、「これからの時代、これくらいでないと」という想いを
杉村 春子演じる理容師に込めたような気がしてならない。否定的に描くなら、誰も彼女のフォローは入れないだろう。
が、しかし、そんな彼女にもフォローが入る。そのフォローを入れるのは、原
節子演じる未亡人だ。
彼女は小津 安二郎の死去をキッカケに女優業を引退してしまって、以来、2015年に他界されるまで表舞台に
出てくることはありませんでした。一説によると、映画女優としても色々とあって、芸能界とは縁を切ったそうです。
『晩春』の頃と比べると、若々しさでという感じではないけれども、大人の女優としての風格すら感じさせる。
結局、本作はこの2人がいなければ、ここまで魅力的な作品にはならなかったと思います。
見方によっては、小津が描く女性映画というところもあって、そのジャンルのパイオニアなのかもしれませんね。
まぁ、厳しい言葉と何度も撮り直しをさせるなど小津のこだわりは強く、キャストにも厳しかったらしいけれども。。。
(上映時間139分)
私の採点★★★★★★★★★★〜10点
監督 小津 安二郎
製作 山本 武
脚本 野田 高梧
小津 安二郎
撮影 厚田 雄春
美術 浜田 辰雄
衣裳 斎藤 耐二
編集 浜村 義康
音楽 斎藤 高順
出演 笠 智衆
東山 千栄子
原 節子
杉村 春子
山村 聡
三宅 邦子
香川 京子
東野 英治郎
中村 伸郎