間違えられた男(1956年アメリカ)

The Wrong Man

これは、TVシリーズの『ヒッチコック劇場』の延長線上にあるような映画に見えたけど、
50年代に黄金期を迎えたヒッチコックとしても、異色と言っていいくらい暗く、とても厳しい視点の映画だ。

もう、映画の冒頭、ナイトクラブでベーシストとして演奏する主人公が、
深夜のステージを終えて、一人で地下鉄に乗るために駅の階段を下りるシーンからして、どこか陰鬱だ。
さすがに大都会ニューヨーク、どこか物寂しく単独行動は大人の男性でも危ないと感じる雰囲気だ。

おそらく、彼がいつも立ち寄っているのであろうカフェで“朝食”を摂り、妻子が眠る自宅に帰る主人公。
しかし、ここでようやっと救いがあるのは、どこか彼の家庭は幸せで温かい雰囲気があるということだ。

が、しかし...それでも映画は予断を許さない。ヒッチコックは徹底して、冷徹な視線を送っているようだ。
それもそのはず、この主人公、全く身に覚えのない押し入り強盗の犯人と間違われて、警察に逮捕されてしまうのだ。
証人たちはこぞって「間違いない」と証言するし、どこから手に入れたのかメモの筆跡も同一人物としか思えない。

個人的には年齢を聞かれた主人公を演じるヘンリー・フォンダが堂々と、「38歳だ」と答えるのが、
なんとも納得がいかないのだけれども(笑)、それはさておき、この主人公に振りかかる災難をヒッチコックは
実に淡々と綴っていて、過剰に介入するような演出はせずに、どこか突き放したように描いていきます。

これは主人公が上映時間中に受け続けるストレスが中心的に描いた映画で、
この時代のサスペンス映画としても珍しいスタンスだと思う。それを象徴するのが、映画の中盤の裁判のシーンだ。

身に覚えのない罪に問われ、何故か自分は外堀を埋められるように証言が続いていき、
どう考えても裁判の展開は不利な状況であるにも関わらず、この主人公は裁判にどことなく集中できていない。
証言内容も頭に入ってこなければ、湧き上がる感情もない。もはや我を見失い、どうすればいいか分からないようだ。
でも、僕はこれを観て思った。現実って、こんなものなのではないかと。これが過剰なストレスの恐ろしさだ。
現実を頭が全く受け付けなくなり、黙っていても良いことはないのに、何も思考できず意思表示もできなくなる。

得てして、現実はこうなのかもしれない。冷静さを失って、自分を見失ってしまうわけです。
やっぱりこういう心理を描かせると、ヒッチコックはとても上手いですね。映画の不穏な空気を増長させます。

しかし、いくら現代社会のように防犯カメラなどが無い時代の出来事とは言え、
強盗に押し入られた被害者の証言と、渡したメモ用紙の筆跡だけで犯人と断定されてしまう、
映画で描かれた警察の捜査では、証拠固めをしっかり行わずに犯人と断定し逮捕しているようで、結構怖い。
しかも、いわゆる“面通し”と呼ばれる被害者が犯人を確認する場面では、あまり入念に確認する感じではない。
それで犯人特定と言われてしまうから、そりゃ冤罪が起こるわけだと納得してしまうくらい、事実確認がかなり甘い。

まぁ・・・現実にはどうか分からないが、それくらい疑義がある状況の中で、
身に覚えのない嫌疑をかけられて突然、自宅の前で警察に身柄を拘束されるというショッキングな出来事に
自分を失ってしまい、冷静に物事を考えられずに“流れてしまう”主人公の心理状況が、映画の大きなカギですね。

主演のヘンリー・フォンダもどことなく映画の中盤までは冴えない表情をしていて、
自分のアリバイを証明しようと奔走するところまでは、「されるがまま」に社会的制裁を受けていきます。

幸いにも、怪しまれながらも義理の兄に大金である保釈金を支払ってもらい、
理解ある妻が弁護士を探したりと、主人公の無実を証明するために奔走しますが、
やはり彼らに無理が祟ってか、主人公の妻は精神的に病んでしまい、主人公も大きなショックを受けるわけです。

この映画はサイコ・サスペンスの様相があって、ヒッチコックはこうして予期せず状況的に追い込まれて、
社会的に外堀を埋められて、にっちもさっちも行かない状況になっていく心理的ストレスを執拗に描いています。
このアプローチは当時で言えば、ハリウッドでもヒッチコックが抜きん出た存在だったと思えるくらい、先進的でした。

主人公に命の危険が迫る真犯人がいる映画でもないというのが、
ヒッチコックの監督作品としては異色な印象ですが、それにしても本作でのヒッチコックの視線はとても厳しい。
ビジネスライクな救いを描かないということもそうですが、どこか主人公を突き放したような描き方をしている。
これはこれでドキュメンタリー・タッチとも解釈できるのですが、ホントに本作のヒッチコックはどこか冷たい。

主人公の精神状態を象徴するように、カメラをグルグルと回転させたり、
ヒッチコックなりに工夫した撮影でありますが、どこまでいっても主人公を主観的に描かないように気をつけている。

もう一つ言うと、主人公は身に覚えのない強盗の疑いをかけられますが、
その大きな原動力となったのは、被害者の“面通し”による証言であり、主人公の言い分は聞き入られなかった。
物語的には真実が明らかになると、猛スピードで事件は解決に向かっていきますが、仮に“面通し”の確認が
記憶だけに頼るものであって、その記憶が曖昧なまま行われていたとしたら、当然、冤罪を生む可能性があります。

間違った結果となれば、証人からしても複雑な心境になるはずなのですが、
仮に冤罪であったとしても、身柄を拘束された時間が戻るわけではないし、経済的な保証があるわけでもない。
何より個人の名誉と社会的な信用を失ったわけで、疑いがかけられると取返しがつかない部分が大きい。

実際に映画の終盤に、主人公の前を証人が通るシーンがあるのですが、
このどことなくやるせない雰囲気こそが、本作でヒッチコックが描きたかった瞬間だったのかもしれません。
そういう意味では、ただの名誉回復を描いた映画、というだけではない深いものが内包された作品だと思います。

もっとも、いくら謝られても、時間や信用が返ってくるものではないし、
精神的に病んでしまった主人公の妻が健康を取り戻すわけではない。映画のラストシーンにテロップで流れますが、
本作のモデルとなった事件では、主人公の妻が健康を取り戻すまでに、ここから更に2年間の年月を要したそうだ。
そう思うと、いろいろな感情的、且つ理知的な議論があるのは分かりますが、やはり冤罪は避けなければなりません。

ヘンリー・フォンダは身に覚えのない疑いをかけられる男を本作で演じた後に、
ほとんどの裁判員が有罪と見解を示しながらも、ディベートを一つ一つ重ねながら事実を整理することを
促す裁判員を演じた翌年の『十二人の怒れる男』へと続いていく、アメリカの正義を問う全盛期の出演作だ。

映画の出来としては、同じヒッチの監督作品として見ると、ベストとは言えない出来ではある。
一つ一つ外堀を埋めながら映画のシルエットを作り上げていくアプローチは相変わらず素晴らしいけれども、
映画の終わり方が、もう少しどうにか出来なかったか・・・というところで、今一つ訴求力に弱いところがネックだ。

本作はしっかり楽しませてくれるタイプの映画というか、実話をドキュメントすることで
従来の直接的な恐怖演出とは違った視点で、スリラーを表現するということに注力した映画です。

当時のヒッチコックはスリラー映画のパイオニアとして、新しいものを求めていたからこそ成し得た作品でしょうね。
モデルとなった実話があるとは言え、これだけ地味で救いのない物語を映画化するのは、勇気ある選択でしょう。
これはヒッチコックに実力があるからこそ出来たことだろうし、こういう企画にプロダクションも出資したのでしょう。

この映画、巧妙なところがあるのは、精神を病んでしまう妻の挙動不審な言動や行動に
どことなく事件に関わっているのではないか?と観客も疑ってしまうことでしょう。おそらく、主人公もそう思っています。
この辺が一筋縄でいかないヒッチコックの素直ではないところが、映画に良い意味でスパイスになっていますね。

ちなみに今回のヒッチコックは冒頭の導入部分のみの出演で、ストーリーテラーのような存在です。

(上映時間105分)

私の採点★★★★★★★★☆☆〜8点

監督 アルフレッド・ヒッチコック
原作 マクスウェル・アンダーソン
脚本 マクスウェル・アンダーソン
   アンガス・マクファイル
撮影 ロバート・バークス
音楽 バーナード・ハーマン
出演 ヘンリー・フォンダ
   ベラ・マイルズ
   アンソニー・クエイル
   ハロルド・J・ストーン
   チャールズ・クーパー
   チューズデー・ウェルド
   エスター・ミンチオッティ