胸に輝く星(1957年アメリカ)

The Tin Star

ハリウッドの良心的存在とも言える名優ヘンリー・フォンダが、
かつて保安官であり、妻子を失った過去を持つ賞金稼ぎが、若き保安官を教育する姿を描いた西部劇。

映画の雰囲気がどことなく、53年の名画『シェーン』にも似ているなと思っていたのですが、
監督は『ウィンチェスター銃’73』や『ララミーから来た男』などのアンソニー・マンということで、
ヒューマニズムを感じる内容になっています。常識的なラストになっているあたりは時代性でしょうが、
ただ、本作の終盤にある、町の荒くれ者ボガーダス率いる連中が保安官事務所を取り囲むシーンの緊張感はスゴい。

映画の序盤から、これぞ西部劇とも言うべき雰囲気がプンプンと漂っていて、
アンソニー・パーキンス演じる若き保安官を教育していく主人公を映しながら、町で起こる事件を追及していくという
西部劇の王道のようなアプローチで描いているのですが、この終盤のシーンは実に印象的な演出でしたね。

主演のヘンリー・フォンダは悪くないのですが、
この若き保安官を演じたアンソニー・パーキンスがチョット軽過ぎるかな。序盤は臨時採用の保安官なので、
この軽さは仕方ないのですが、映画が進むにつれて、色々と経験を重ねて保安官っぽくなっていくだけに、
映画の最後までどこか軽い感じするというのは、なんだか勿体ないですね。終盤はもっと重厚感を出して欲しかった。

本作のアンソニー・パーキンスはまだデビュー仕立てで、
当時で言う“イケメン俳優”の若手の期待される存在だったはずで、本作も出世作の一つとなりました。
青春映画に数多く出演していましたが、決定的になったのは60年のヒッチコックの『サイコ』でした。

決して悪い俳優ではないのですが、まだ西部劇で泥臭くやるには爽やか過ぎたのかな・・・という印象ですね。

上映時間も92分ととても短く、映画の内容はコンパクトに凝縮されていて、
アンソニー・マンの無駄の無い演出が良くって、このアンソニー・パーキンスの軽さを除けば、あまり隙が無い映画だ。
所々、現代の感覚で観れば「ん?」という部分がないわけでもないのですが、そこも違和感なく乗り切ってしまう。

例えば主演のヘンリー・フォンダにしても、たまたま町で出会った少年を家まで送って、
家の母親から感謝の言葉をかけられて、いきなり「泊めてくれ」ですからね。よくお願いできるなと感心しますが、
その母親もいろんなリスクは時代変わらず感じていると思うのですが、アッサリとOK出しちゃいますからね。
個人的には、よくもまぁ・・・そう、簡単に赤の他人を家に泊めるなと感心しますが、そこは難なくサラッと描いてしまう。

それはヘンリー・フォンダの人徳というか、存在感が為せるワザなのでしょうね。
彼からは妙な下心や、悪い心は見えないですからね(笑)。なかなか他の役者さんでは、表現できないですよ。

この辺はアンソニー・マンも上手く利用した感じで、それで彼が本来的に表現したかったであろう
ヒューマニズムを映画の中に吹き込んでいる感じで、ヘンリー・フォンダをキャスティングできたのは大きかったと思う。
尚且つ、それでいてヘンリー・フォンダが家の母親を口説きにいかないところが、彼が心をつかむポイントですね。

一応は賞金稼ぎとして登場はするのですが、無法者という感じではなく、
あくまで妻子を失った元保安官として、まだ心の穴を埋め切れていない“流れ者”という感じですね。

こういう設定でも嫌味にならないのは、やっぱりヘンリー・フォンダの役得なところ。
だから役者にとって、イメージってスゴく大事ですね。時に、そのイメージが足かせになることもあるのですが、
ヘンリー・フォンダって、自身についたイメージを良い意味で利用した役者の一番手だったのではないかと思うのです。
(おそらく、そのイメージを払拭して違うキャラクターを演じたいとする気持ちもあったとは思うのですがね・・・)

あまりスゴ腕のガンマンという雰囲気はしませんが(笑)、アンソニー・パーキンスに河原で
銃の扱い方を教える姿は、さながら教師みたいな感じですから、いくら清潔感のない風貌にしても“隠せない”ですね。

本作には、もう一つ大きなテーマがあって、それが映画の終盤に明らかになっていきます。
群集心理というわけではないのでしょうが、逃亡している悪党を追い詰めるために町の人々で追跡隊を組ませて、
荒くれ者のボガータスがリーダーになると、その追跡隊はどうなるか?ということが、終盤の焦点になっていきます。

本作はモノクロ・フィルムで撮影されていますが、結構、暗がりの屋外撮影シーンがあります。
その中で、夜通しで悪党を追っていく追跡隊の執念が表現されるのですが、途中から手段を選ばなくなっていく。
まるで日常のストレスや、ボガータスにいたっては保安官に対する個人的な恨みを悪党たちを殺害することで
晴らすという、事件の処罰とは関係のない私刑団みたくなっていく。ヘンリー・フォンダの言う通り、ただの暴徒だ。

確かに悪事を働いたということは被害者がいるわけで、そこは考慮されなければならない。
被害者感情からすれば、暴徒であっても自分の代わりに復讐を果たしてくれるのであれば、否定できないかもしれない。
ただ、法治国家である以上、法に基づいて対処されなければ、“何でもあり”という世の中になり、秩序が崩れてしまう。
74年に『狼よさらば』のような波紋を呼んだ、“目には目を、歯には歯を”をテーマにした映画もありましたけど、
本作は西部劇というフォーマットの中で、そういった社会的なテーマを内包させた先駆的な作品でもあるかもしれません。

西部劇ではありますが、激しいガン・アクションや馬上のアクションを期待してはいけません。
あくまで本作は静かに語りかけ、終盤に僅かながら動的なシーンがあるくらいなので、とても穏やかな西部劇です。

ただ、この映画で描かれた町は主人公の賞金稼ぎモーグがいなくなったら、またダメになってしまうだろうな。
この町には保安官を育てる気運もないし、易々とボガータスみたいな男にひれ伏して、権力を与えてしまうなんて、
この町の将来性の乏しさを象徴しているようで、映画の中ではその解決策は全く描かれていないのが、なんとも妙。
個人的には町の人々のメンタリティが確立して、強くなった姿を描いて、明るい未来を示唆するラストにして欲しかった。

この物語は「モーグらが幸せになりましたとさ、めでたし、めでたし♪」では、いけないと思うのです。

と言うのも、アンソニー・パーキンス演じる若き保安官がどこまで成長したのか...
確かに最後には銃を撃てるようにはなったのですが、モーグに頼りっきりなところは何も変わっていないので、
彼も精神的に成長した証というのを描いた方が、映画はもっと強い説得力を持って、引き締まったと思います。

インパクトの強い映画というわけではないので、チョット忘れられた作品ではありますが、
このラストがもう少し何とかなっていれば、きっと傑作として多くの方々に愛される映画になっていたと思う。
少しずつ食い足りない部分があるような映画ではありますが、アンソニー・マンの主義主張はキチッと反映されている。

ですので、上映時間をもう10分長くして、町が変わっていく姿を後日談として加えても良かったと思うんだよなぁ。
ヘンリー・フォンダを上手く利用できたので、映画の最後はヘンリー・フォンダに頼らない姿を描いて欲しかった。

本作はいわゆる修正主義西部劇に該当するようで、単純な正義vs悪党ではなく、
解決方法も一概に暴力(銃撃)の一択というのを肯定的に描いているとは言い難い。この時代でそういったスタンスで
西部劇を成立させていたのは珍しい作品だと思いますが、その社会性こそ従来の西部劇を変える潮流を作りました。
実際にこういった流れが出来て、イタリア製のマカロニ・ウェスタンや黒人俳優たちが中心になって演じる西部劇など、
いろいろな西部劇が製作され、世界的に認知されるキッカケとなったことは間違いなく、潮目が変わったと思います。

それでいて、本作は西部劇本来の良さも兼ね備えていて、過渡期の一作と言えるかもしれません。
そうなだけに重ね重ね、もう一歩何かが足りないという感覚を抱かせるあたりが、なんとも惜しい作品だ。

ちなみに若き日のリー・ヴァン・クリーフが殺人犯エド役で出演しているのにもオールドな映画ファンは注目したい。

(上映時間92分)

私の採点★★★★★★★☆☆☆〜7点

監督 アンソニー・マン
製作 ウィリアム・パールバーグ
   ジョージ・シートン
原作 バーニー・スレイター
   ジョエル・ケイン
脚本 ダドリー・ニコルズ
撮影 ロイヤル・グリッグス
音楽 エルマー・バーンスタイン
出演 ヘンリー・フォンダ
   アンソニー・パーキンス
   ベッツィ・パルマー
   マイケル・レイ
   メアリー・ウェブスター
   リー・ヴァン・クリーフ