モスキート・コースト(1986年アメリカ)

The Mosquito Coast

文明社会を徹底的に否定し、他人の施しを拒否、
ギスギスしたアメリカでの生活に背を向け、家族全員を連れて、ホンジュラスのジャングルへ入り、
自らの発明の能力を活かして、一家で自給自足の生活を始めながらも、幾多の困難を迎え、
次第に父親が常軌を逸した立ち振る舞いをし始め、妻や子供たちとの対立を深める姿を描いたドラマ。

監督は『刑事ジョン・ブック/目撃者』のピーター・ウィアーですが、
基本、ピーター・ウィアーの監督作品ですから、なかなか見応えがある質の高い作品だとは思います。

特に当時、アクション映画やエンターテイメント性高いヒット作に連続して出演していた、
ハリソン・フォードがあまりに独善的で、極端な文明社会否定派を貫き通しているのに注目したい。
おそらく、「あれ、ハリソン・フォードって、こんなに熱演型の役者だっけ?」と戸惑う人もいるだろう。

この映画の大きなテーマは、文明社会に背を向け、自然と共生しながら、
原始的な生活を送っている先住民族たちに、チョットした発明品から彼らの生活を便利にしていくということで、
実際にこの映画の主人公であるアリーは、食品を腐らせないためにも、気温の高いジャングルの奥地に
アンモニアの巨大ボンベを持ち込んで、大型の製氷機を自作し、彼らの生活の利便性を高めようとします。

しかし、ここで勘違いしてはいけないのは、アリーはアリーで紛れもない文明人であるということなんですね。

アリー本人がどう否定しようとも、彼がやっていることは文明人の発想。
ただ単にこれまで開拓の手がかかっていない土地の支配者になって、自分の発明の能力を誇示し、
現地の人々の支配者になるための手法にしかすぎず、事実、彼は氷を手にすることが当たり前になり、
彼が手にした“ジェロニモ”の地区に氷や冷涼な空気が当たり前に供給される現実に、不満を抱き始めます。

そこで彼が考えたことは、更にジャングルの奥地を進んで、
更に奥地で暮らす先住民族に氷を持っていくことで、彼の自己顕示欲を満たそうと周囲を巻き込みます。

結果的にこの行動が仇となって、トンデモない災いをもたらすのですが、
彼の自己顕示欲の強さを彼自身、自覚してるのか、していないのか、定かではありませんが、
彼はおそらく文明社会の競争の中では、自分は勝者になることができないと、腹をくくったかのようです。

しかし、彼がそんな現実を受け入れずに、
現代社会を徹底的に否定し、それから逃げる選択をしたのは、家族を支配したかったからだと思うんですよね。
アメリカでの生活では社会的に彼の欲求が満たされることはなく、経済的にも満足することができない。
そこで彼は「家族を救うんだ!」ということを口実に、家族を無理矢理にでも引っ張って、ジャングルへ入ります。

これと好対照だったのは、アメリカからの船旅の中で出会った宣教師の存在で、
アリーは認めたがらないだろうが、宣教師がジャングルに住居を構え、現地の住民たちを洗脳して、
現地の間で君臨しようとしている姿に驚くなんてエピソードがありますが、これにアリーが腹を立てる理由は
現地の人々を救いたいという気持ちからではなく、紛れもなく「先を越された!」という想いからでしょう。

こういうドラスティックな事例を持ち出すあたりが、
如何にもピーター・ウィアーらしいのですが、映画としては上手く機能していると思う。
そういう意味で本作は、ピーター・ウィアーならでは内容の作品だったと言うことができると思いますね。

アリーの選択として、アメリカに戻るという選択肢は無いせいか、
ジャングルでの生活で幾多の苦境に追いやられながらも、アリーはジャングルでの生活を続ける
理由を探し続け、見つけた途端にどことなく嬉しそうな表情をするのが印象的ですね。
この映画でのハリソン・フォードはこういう細かい部分も、実に上手く表現できていることに感心させられますね。

しかし、ピーター・ウィアー特有のドラスティックな展開の映画が苦手という人には、
楽しめない作品かもしれません。ソウル・ゼインツのプロダクションで作った映画であることも影響してか、
とても力強く個性的な映画に仕上がっており、内容的にも好き嫌いがハッキリと分かれるでしょうからね。

アリーは文明社会に背を向け、自然の中での生活を理想とすると主張しますが、
理想郷を作り上げたつもりでいながら、結果的に“ジェロニモ”は大量のアンモニアが流出して、
汚染地帯にしてしまうという展開が皮肉で、彼自身が環境汚染を行ってしまうわけですね。
一見すると、アリーは文明社会の否定者であるかのように描かれますが、実は彼は紛れもない文明社会の
代表者だったわけで、結局、彼が目指していたのは彼自身が地域の支配者になることであったわけですね。
だからこそ、彼は氷を作っても、それが当たり前のようになり、褒めてもらえないことに不満を抱くわけです。

この映画の大きなテーマとして存在するのは、アリーの主張の矛盾なんです。
彼が批判する対象であったはずの存在に、実は自分自身がなりたがるという矛盾。

皮肉にも、映画の前半ではアリーの理想に魅せられて舞い上がるアリーの家族でしたが、
出発する前にアリーの雇い主である爺さんが忠告していた、「お前の親父は、実に危険な男だ!」という
内容が的確に当たってしまい、アリーの理想が暴走するにつれ、ドンドンと家族との溝は深まっていきます。

「アメリカは核戦争で吹っ飛んだ」とテキトーなウソを子供についてまでも、
まだジャングルでの生活を継続させようと粘るアリーに、観客はストレスを抱くでしょうが、
一方でピーター・ウィアーは「それでも、アリーは子供たちにとって、唯一無二の父親なんだ」と言わんばかりです。

というのも、リバー・フェニックス演じる息子チャーリーの視点で映画が進むのですが、
クライマックスで意識が朦朧とするアリーが「川を上っているのか?」との問いかけに対し、
思わず「そうだよ」と言ってしまうわけですね。これは僕は父親を思う優しさを象徴していると思う。
おそらく賛否が分かれるだろうが、チャーリーは決して父親を怒らせないために言ったわけではなく、
父親の最期を悟ったからこその優しさであったと思うんですよね。これが他人だったら、そんなことを言いません。

アリーは持っている能力を正しく使えて、
人間的にももっと他者を尊重する気持ちがあれば、きっと有能な人間だっただろうと思う。

しかし、自らの主張を通すための主張の方法を間違えると、トンデモない人間になってしまうという好例だ。
主張の方法を間違ってしまうと、自分の主張が通らないだけでなく、反社会的な存在に変貌してしまい、
社会で成功する機会を失うだけでなく、結果的に周囲に危害を加えてしまう存在になってしまうわけですね。

この頃のピーター・ウィアーは実に優れた洞察力を持って、映画を構成できている。
それを象徴する、今となっては忘れ去られてしまった感の強い、秀作ドラマとして再評価を促したい一本。

(上映時間118分)

私の採点★★★★★★★★☆☆〜8点

監督 ピーター・ウィアー
製作 ジェローム・ヘルマン
原作 ポール・セロー
脚本 ポール・シュレイダー
撮影 ジョン・シール
編集 トム・ノーブル
音楽 モーリス・ジャール
出演 ハリソン・フォード
    ヘレン・ミレン
    リバー・フェニックス
    ジャドリーン・スティール
    ヒラリー・ゴードン
    レベッカ・ゴードン
    コンラッド・ロバーツ
    マーサ・プリンプトン