夕陽に向って走れ(1969年アメリカ)

Tell Them Willie Boy Is Here

これもアメリカン・ニューシネマ期に作られた隠れた名西部劇ですね。

ロバート・レッドフォード主演の映画としては、同じ69年に製作された『明日に向って撃て!』の方が
アメリカン・ニューシネマの名作として知られているために本作の存在が忘れられてしまったが、
どこか意味深長な映画の終盤の展開など、色々と訴求する力が強い作品であり、インパクトが強い作品だと思う。

監督のエイブラハム・ポロンスキーは、本職が脚本家ではありますが、
本作での仕事ぶりは悪くなく、少々物足りないところはあるしろ、もっと評価されていい作品だと思う。
エイブラハム・ポロンスキーはマッカーシズム吹き荒れた1950年代の“赤狩り”で、共産党員であったとして
ハリウッドを追放されていた時期があり、60年代後半に復帰したものの、それまで“干されて”いたようだ。

本作で描かれるのは、インディアンの青年ウィリー・ボーイが恋人との交際に反対され、
恋人の父親を殺してしまい、更に町のバーで不当な扱いを受けることに憤慨し、騒ぎになったことから
警官隊に追われる身となる。恋人と逃避行にでるウィリー・ボーイを追うのは、町の保安官クーパーだったが、
インディアンへの差別的な感情からウィリー・ボーイを追跡する連中に嫌気がさしていた部分もあり、
町を訪れる大統領の警護を理由に追跡隊から離れるものの、町の連中はインディアンが徒党を組んで、
大統領を襲うのではないかと、騒ぎを更に大きくしていき、追跡隊がウィリーに襲撃されたと一報をクーパーが聞き、
ついにクーパーはウィリーと対峙する覚悟を決め、単身でウィリーが隠れる山岳地帯へと分け入っていく姿を追います。

ロバート・レッドフォード演じるクーパーもどこか尖った部分のあるキャラクターであり、
あれやこれやと好き勝手にクーパーに指示を出す偉そうなオッサンにも、「アンタの言う通りにはしない」と拒絶。
明らかに私的な差別感情から動いている追跡隊の連中を危惧して、映画のクライマックスでは「葬れ!」と指示する。

1900年代に実際に起きた事件をモデルにした映画であるがゆえに、
当時の差別当たり前の価値観をメインに描いていて、相手を殺害した証拠を得るためにと、
焼かれゆく死体を目の前にしても、なんとかして火の中の相手の持ち物を盗み取ろうとする異様な光景が描かれる。

そしてこの映画は、全てのことについてハッキリと描こうとしない。何もかもが不透明なままである。

その代表がキャサリン・ロス演じるウィリーの恋人の描き方だと思いますが、
彼女は一体どういう状況で、どのようにして扱われたのか、ハッキリと描かないからスッキリしない。
それだけではなく、クーパーも素直な正義漢とは言い難いキャラクターで、彼の人間性もそこかハッキリしないし、
ウィリーはウィリーで、大変な状況になって精神的に混乱しているとは言え、あまりに身勝手なことを恋人に言い放つ。
もっと言ってしまえば、どのような理由があったとしても、ウィリーが人殺しであるのは事実なので、同情は集めにくい。

この映画は、そんな混沌とした状況の中、どこかスッキリしないまま進み、スッキリしないまま終わる。
これこそアメリカン・ニューシネマ期の映画という感じがする。この時代にしか、こんな西部劇は撮れなかったでしょう。

クーパーからしても、積極的にウィリー・ボーイを追い詰めたいと考えていたわけではなかったが、
いざ仲間を襲撃されたことを知ると、怒りに震える町の連中を抑えられないことを悟り、ウィリー追跡の再開を決める。
クーパーからすると、この追跡は何一つ得るものが無いことを分かっていただろうし、結末がどうなるかも悟っていた。
まるで彼が思い描いていた通りの結末に至ってしまうことで、この無益な闘いに何とも言えない表情を浮かべます。

エイブラハム・ポロンスキーも本作を通して、そこまで複雑なことを描きたかったわけではないだろうと思う。
じゃあ、なんで『卒業』や『明日に向って撃て!』でブレイクしたキャサリン・ロスを先住民のメイクをさせて、
クーパーの後をついて走るだけの役柄で出演させたのかとは思うのですが、時代を象徴する女優さんでしたからね。
(当時はロバート・レッドフォードとキャサリン・ロスのコンビを期待した映画ファンも多かったことでしょう・・・)

もう単純に、このやるせなさ、無情感というのが漂うだけの映画なのですが、
それがアメリカン・ニューシネマ期の映画の潮流に上手くシンクロした感じで、時代の空気にフィットしたのでしょう。
ここまで活劇性を無視して、微妙な空気感をストイックに描き続けた映画というのも、今じゃ実現しないでしょうから。

映画の終盤、すっかり隠れてしまったウィリーを探し続けるクーパーを描きますが、
特別な能力があるわけでもないウィリーですが、まるでスナイパーのようにクーパーを狙い続ける
さながらシューティング・ゲームのような感覚で、彼らの攻防を描くのが面白い。激しい銃撃戦ではないが、
いつ撃たれるか分からない緊張感と、逃げ場がないので現実的にはありえない隠れ場所の気がするが、
ウィリーが隠れているであろう山の上へと、裏側からアプローチするクーパーを描く望遠ショットがあまりに美しい。

そう、この映画は名カメラマンのコンラッド・L・ホールの仕事が光る。
夕闇での撮影は微妙なところがあるが、太陽光を採り入れた昼間の屋外の撮影はホントに素晴らしい。

おそらく劇場公開当時の日本の映画会社は『明日に向って撃て!』のヒットにあやかって、
このキャスティングにも乗っかって、同作を意識した邦題をつけたのだろうが、お世辞にも似ている映画ではないし、
映画のコンセプトとしても共通するものはありません。『明日に向って撃て!』は内容の割りに、どこか楽天的でしたが、
本作はそんな感覚とは対極にあるぐらいのシリアスさ、そして言葉悪く使えば鈍重なタッチで描かれている。

本作は内容の割りにカタルシスが無いのが、僕は致命的かなとは思ったけれども、
どこか一つでもボタンをかけ違っていれば、もっと高く評価されるアピール度の高い作品になっていたでしょうね。
そんなポテンシャルを感じさせる作品であり、万人ウケする無いようではないにしろ、てんでダメな映画でもないと思う。

できることであれば、もう少し活劇性は出して欲しかった。ガン・アクションがあまりに寂しいのは残念。
それを第一に見せたい映画ではないのだろうが、馬上のアクションを含めても、どこか見劣りすることは否めない。
やっぱり西部劇は、それでは大きな“武器”を失うことになる。本作には、それを補える“武器”は無かったと思う。
そのせいか、どうにも見応えがない。あれよあれよという間に映画が終わってしまったという人もいるだろう。

そんなに複雑なことを描きたかったわけではないだろうと思えるだけに、
そのシンプルな魅力というものを、本作自体が持ち合わせることができなかったのは、あまりに勿体ない。
それはハッキリしないラストをもってしても、本作のセールスポイントが何なのか分からないまま映画が終わってしまう。

この辺はエイブラハム・ポロンスキーも自分で脚本を書いたのだから、もう少し何とかして欲しかったところ。
このままでは本作のミステリアスな魅力が、あまり理解されないまま終わってしまうのは仕方がない気がする。

ところでウィリー演じるロバート・ブレークは00年代に私生活でトラブル沙汰になり、
当時ハリウッドのゴシップ誌を大きく賑わせていた役者で、後に刑事裁判では無罪になりましたが、
民事裁判ではロバート・ブレークの偽証の事実が認められ、有罪になり空前の罰金刑になるということがありました。

60年代は本作は勿論のこと、67年の『冷血』などで持ち味を出していたし、
70年代以降はテレビ界で活躍するなど、実績を積み上げていた役者なだけに、この事件はとても残念です。

本作でも、命を賭けてでも恋人と逃げ回り生き延びる覚悟があるのかと思いきや、
突如として感情的になって、恋人に高圧的な物言いをしたり、随分と自分勝手なところがあるように
ウィリーを演じていたが、思わずこれが素のロバート・ブレークなのではないかと、僕も自分勝手に邪推してしまう。

そんな風に、かつての功績に対しても泥を塗るような、とっても大変なスキャンダルです。
刑事裁判で二度と扱われることはないでしょうが、許されることはない罪で、もう復帰することはないでしょう。
私生活でもそうとう気が短い人でトラブルが絶えなかったそうですが、過去の出演作も価値を損なうようでツラい・・・。

そう思うと、ロバート・レッドフォードってスゴいなぁ。ずっとクリーンなスターというイメージがある。

(上映時間97分)

私の採点★★★★★★★☆☆☆〜7点

監督 エイブラハム・ポロンスキー
製作 フィリップ・A・ワックスマン
   ジェニングス・ラング
原作 ハリー・ロートン
脚本 エイブラハム・ポロンスキー
撮影 コンラッド・L・ホール
美術 ヘンリー・バムステッド
   アレキサンダー・ゴリツェン
編集 メルビン・シャピロ
音楽 デイブ・グルージン
出演 ロバート・レッドフォード
   ロバート・ブレーク
   キャサリン・ロス
   スーザン・クラーク
   ジョン・バーノン
   バリー・サリバン
   チャールズ・エイドマン