タクシードライバー(1976年アメリカ)

Taxi Driver

不眠症に悩みタクシードライバーの職を得たベトナム帰還兵の苦悩に満ち、屈折した感情を抱き、
やがては過激な思想を持ち、“世直し屋”の如く、次第に行動を起こしていく姿を描いたヒューマン・サスペンス。

僕の中では、これが完全にアメリカン・ニューシネマを終わらせた作品って感じがして、
底知れぬ社会への鬱憤を、悶々と画面に充満させまくるのは由としても、正直言って、最後に納得ができなかった。
これは何度観ても、自分の中での感想は変わらない。映画の出来は悪くないと思うけど、どうしても好きになれない。

未だに根強く愛される70年代の映画という観点では、かなりの人気作品だし、
即興で作り上げたという、主人公トラビスの精神が次第に崩壊しつつあることを象徴させた、
彼の自室で「Are you talkin' to me?」(オレに言ってんのか?)と独り言を連語するシーンも超有名だけど、
それでも本作のことをどうしても好きになれない。それは最後に急激に、お行儀良くなってしまった印象があるから。

勿論、マーチン・スコセッシが描きたかったことがあるのは分かるし、
やりたい邦題やりながらも、最後に映画を収束させたくなる気持ちも分かる。トラビスを一方的な視点のみで描き、
彼の行動が持つ影響力を大きく見せたかったというのも感じる。しかし、ラスト5分間は完全に蛇足だと思った。

このトラビスという男のキャラクターをどう捉えるかで意見が大きく分かれそうなんだけど、
彼が具現化させた狂気というのは、当時の人々が多かれ少なかれ抱えていた感情を、負の方向に肥大化させたもの。
ベトナム戦争でまるで国の“使い走り”のように扱われ、せっかく無事に帰ってきても、まるで良いことが無い。

街の治安は悪く、汚く、まるでゴミ溜めのような雰囲気すらあり、これらを一掃することが必要と感じる。
たまたま見かけた大統領候補者の事務所で働くベッツィに一目惚れするものの、交際は上手くいかず、
どうせ眠れないならと始めたタクシードライバーの仕事も、決して楽しいわけではない。稼ぎは良いものの、
トラビスの悶々とした感情は高まるばかりで、誰も彼の気持ちのガス抜きをすることはできず、次第に自分が行動を
起こさなければ、世の中は正しい方向に行かないという想いを強め、武器を携帯し、何故か頭をモヒカン刈りにする。

もう完全に危ない“無敵の人”だ。おかげで要注意人物とシークレット・サービスからは目を付けられ、
孤立化したトラビスの感情は止められず、一人の12歳のコールガールの少女を保護するために、行動を起こします。

確かに、このトラビスを演じたデ・ニーロのインパクトはスゴく大きい。高く評価されて然るべき名演技だ。
当時、賞賛されたように子役時代のジョディ・フォスターもスゴい。こんな大人びた芝居は、なかなか出来ないこと。
映画の後半にはあまり出番が無くなり、蛇足のようなラストに出てきて、僕の中では微妙な感じになっちゃんだけど、
それでもトラビスが一目惚れしたベッツィを演じたシビル・シェパードも、なかなかの存在感で素晴らしいと思った。

そして、そんな映画を見事にまとめ上げたマーチン・スコセッシの才気も、エネルギッシュに満ち溢れる。
もう、映画のオープニングから彼の才気が炸裂している。本作の音楽をレコーディングして、すぐに亡くなった、
バーナード・ハーマンの夜のニューヨークの喧騒とは対照的に気ダルさを演出する音楽が、すこぶる素晴らしい。
正直、バーナード・ハーマンの仕事と言えば、ヒッチコックの映画という印象が強いが、本作がベストなのかもしれない。

本作の中で最も光るのは、マイケル・チャップマンの何とも言えない“浮遊感”漂うカメラだろう。
このオープニング・クレジットのカメラからして最高。夜のニューヨークを走る車のフロントガラスが雨に濡れ、
ワイパーを間欠で動かすものの、フロントの雨粒がキレイには消えず、ネオンが“溶ける”ように雨で前が見えない。
普通のカメラマンなら、こんな風に撮らないですよ。敢えて、本作のマイケル・チャップマンはこういう風に撮った印象。

このオープニングの何とも言えない“浮遊感”のような感覚のカメラだけでノックアウトされる人もいるだろう。
これが当時の夜のニューヨークの空気なのだろうし、閉塞感なのだろう。そう思わせるだけの説得力がある。

そこは素晴らしいし、映画の中盤までは最初っからクレージーな部分があったトラビスが
更におかしくなっていって、ズルズルと転落していくかのように勘違い度を増していくあたりが面白くって、
ベトナム帰還兵の苦悩と相まって、若干の社会性を抱えたテーマに上手く肉薄している感じで良かったんだけど、
僕はそこまでクレージーなら、このトラビスという男が暴走する姿を突き抜けるところまで、突き抜けさせて欲しかった。

訳の分からない慈悲のようなエピソードはいらないし、もっと徹底して狂わせておいて欲しかった。
売春宿に乗り込んでいくまでは良かったし、どうせ不条理なことを描いた映画なので、最後まで不条理に行って欲しい。
この辺が「もうアメリカン・ニューシネマの時代は終わったんだな・・・」と感じさせられた部分で、いつまでも暗く重たく、
ジメッとした映画ばかりが台頭する時代ではないと、マーチン・スコセッシから諭されたような気分になりました(笑)。

思えば、マーチン・スコセッシは少々狂った人の暴走劇を描くことが得意な人なので、
本作は彼の虎の巻のような内容ではあるのですが、どこかで常識的なニュアンスを入れるので、こうなるのでしょう。

トラビスは不眠症に悩まされていたというだけあってか、最初っからどこかズレた人間だった。
そもそもベッツィに一目惚れしたからと言って、ずっと選挙事務所の前で待ち構えていて、一度警察を呼ばれたにも
関わらず、それでも一念発起して、自ら事務所内に乗り込んでいって、ベッツィに直談判する厚かましさがスゴい。

そして、それ以上に驚かされるのはベッツィも一度はトラビスの誘いに乗ってしまうということだ。
これはブット飛んでいる。現代の感覚では、トラビスは最初っから明らかな不審者であり、ストーカーにも近い。
そしてベッツィを口説くためにと、彼女の仕事仲間を侮辱し、自分と同じく社会の孤独者であると勝手に主張する。
まぁ、半ば図星だったからベッツィもトラビスの誘いに乗ったのだろうけど、すぐにトラビスも墓穴を掘ってしまうのです。

それは映画を観れば分かりますが、いくら70年代の出来事とは言え、
明らかに育ちも違えば、生活水準も異なるベッツィをデートに、“あんなところ”に誘えば激怒されるに決まってる(笑)。
もう、この発想自体がトラビスの異常性というか...空気の読めないところを示していて、トンデモない男である(笑)。

それをサラッと、さも「フツーのことだろ?」という態度でいられるトラビスの厚かましさに閉口するが、
その後もベッツィに機嫌を直してもらおうと、一方的に選挙事務所に花を送り付けたり、何故、電話に出ないのかと、
選挙事務所に乗り込み、大声で彼女を怒鳴りつけ、事務所の職員とケンカ寸前になったりと、完全にストーカーだ。

当時はストーカーという存在は、社会に強く認識されていたわけではないだろうけど、
本作と同じ頃に『ミスター・グッドバーを探して』という、凄まじいまでの衝撃作があって、あれもストーキングに近い
男の凶行を描いていたので、ストーカーの認知度は低くても、ストーカーに近いことをやっていた奴はいたのだろう。

しかも、両親への手紙とやらで、勝手にベッツィと付き合っていると書いているし、
「強く願っていると現実に叶う」とばかりに、勝手な思い込みと一方向的なコミュニケーションが、彼の行動原理である。

現代にもそういう人っていますけど・・・、この映画のトラビスはそのパワーをあらぬことに向け始めます。
「なんで善良な市民であるオレが、こうも恵まれないんだ」という想いが強いのだろうが、良くしたいという渇望が
あまりに強過ぎると、一分の狂いも許せなくなり、それに協力的ではない態度や言動の人物は、敵であると考えます。

これ、会社にもそういう発想に陥りがちな人、結構います。特に日本は“カイゼン文化”ですから。
勿論、改善することは必要なことだし、良いことですので否定するつもりはありません。しかし、強過ぎるのは問題です。
それから、一般に“カイゼンに終わりはない”のですが、どこかに区切りを付けるというクセをつけないと、厄介です。
「ここまでやったらゴール」というものが無いまま行うカイゼンでは、次第に改善活動自体が目的化してしまいます。

まぁ、改善すべきことがたくさんあり過ぎるところは、改善活動自体が目的でいいのかもしれませんが、
改善しているということが自己満足ではなく、ホントに必要な改善なのかという視点を見失ってしまいます。

トラビスは彼なりに強い想いや理想を持っていたわけですが、その想いに余裕が無いわけですね。
そうなると、「なんで、こうならないんだ!」という想いが不満になり、やがては肥大化して、暴走していきます。
この映画で描かれたトラビスを更にエスカレートさせたのが、『キング・オブ・コメディ』という印象が僕にはあって、
同作でデ・ニーロが演じたルパート・パプキンというコメディアンの狂いっぷりの方が、僕は好きなんだなぁ〜。

本作も最後まで『キング・オブ・コメディ』のように突き抜けた部分が欲しかった。それが僕の中では致命的。

ちなみに映画の前半にトラビスが入るポルノ映画館の料金所で、レジ担当の女性職員を食べ物を
選ぶフリして口説こうとするシーンがありますが、この女性役を演じたダイアン・アボットとデ・ニーロは本作と同年に
結婚していて、2人の子どもをもうけ、彼らの結婚生活は約12年間にも及び、88年に離婚することになります。

(上映時間114分)

私の採点★★★★★★★☆☆☆〜7点

監督 マーチン・スコセッシ
製作 マイケル・フィリップス
   ジュリア・フィリップス
脚本 ポール・シュレーダー
撮影 マイケル・チャップマン
編集 トム・ロルフ
   メルビン・シャピロ
音楽 バーナード・ハーマン
出演 ロバート・デ・ニーロ
   シビル・シェパード
   ピーター・ボイル
   ジョディ・フォスター
   アルバート・ブルックス
   ハーベイ・カイテル
   ジョー・スピネル
   マーチン・スコセッシ
   ダイアン・アボット

1976年度アカデミー作品賞 ノミネート
1976年度アカデミー主演男優賞(ロバート・デ・ニーロ) ノミネート
1976年度アカデミー助演女優賞(ジョディ・フォスター) ノミネート
1976年度アカデミー作曲賞(バーナード・ハーマン) ノミネート
1976年度イギリス・アカデミー賞助演女優賞(ジョディ・フォスター) 受賞
1976年度イギリス・アカデミー賞作曲賞(バーナード・ハーマン) 受賞
1976年度イギリス・アカデミー賞新人賞(ジョディ・フォスター) 受賞
1976年度全米映画批評家協会賞主演男優賞(ロバート・デ・ニーロ) 受賞
1976年度全米映画批評家協会賞助演女優賞(ジョディ・フォスター) 受賞
1976年度全米映画批評家協会賞監督賞(マーチン・スコセッシ) 受賞
1976年度ニューヨーク映画批評家協会賞主演男優賞(ロバート・デ・ニーロ) 受賞
1976年度ロサンゼルス映画批評家協会賞主演男優賞(ロバート・デ・ニーロ) 受賞
1976年度ロサンゼルス映画批評家協会賞音楽賞(バーナード・ハーマン) 受賞
1976年度カンヌ国際映画祭パルム・ドール 受賞