サマー・オブ・サム(1999年アメリカ)

Summer Of Sam

1977年夏、記録的な猛暑に見舞われた大都市ニューヨークで発生した、
44口径の拳銃を使った連続殺人事件に脅える人々と、勝手に事件の真犯人に迫る様子を描いたタフなドラマ。

監督は『ドゥ・ザ・ライト・シング』などエネルギッシュな映画で知られるスパイク・リーで、
他の彼の監督作品で多く見られるように、本作もスパイク・リー自身がテレビ・リポーターとして出演している。

2時間を大きく超える上映時間というヴォリュームの映画であり、
内容的にもかなりタフなドラマですから、一気に最後まで観るには結構な体力と気力を要する映画ですが、
スパイク・リーらしくキレ味の鋭い演出で、混沌としたニューヨークの空気を見事に画面に吹き込んでいる。

この映画、洋楽が好きな人は興味が出るところがあるかもしれません。
後に『戦場のピアニスト』でオスカーを獲得することになるエイドリアン・ブロディがパンク・ロックに傾倒する
青年リッチー役で出演していますが、彼に象徴されるようにニューヨーク・パンクが徐々に市民権を得ていって、
70年代後半に差し掛かって、クラッシュ≠ノ代表されるロンドン・パンクが台頭し、世界的ブームになります。

ニューヨーク・パンクは当時はアングラな雰囲気でいっぱいで、
かなりの異端児的な存在だったでしょうから、その怪しげな雰囲気から敬遠されていた風潮もあったでしょう。
(当時、大ブームを迎えつつあったディスコが対照的にメイン・ストリームのように描かれているのが印象的だ)

リッチーもザ・フー≠ゥらパンクに傾倒していったように、その衝動性を70年代前半のルー・リードや
イギー・ポップらが台頭していたグラム・ロックの妖しさから派生して、『タクシードライバー』でロバート・デ・ニーロが
演じたベトナム帰還兵のトラヴィスのようなアウトローのルックスに憧れて、モヒカンにカットするしピアスを装着するなど、
当時としてはかなり新しいファッションへと変遷していく様子が、予想外なほどにしっかりと描かれていました。

使われる音楽もトーキング・ヘッズ≠ネどポスト・パンク的な音楽も使われており、
黒人の社会を中心に描いてきたスパイク・リーが、本作ではほぼ真正面から77年夏のニューヨークの白人社会を
描いており、パンク・ロックに象徴されるように行き場の無い怒りを爆発させるような、凄まじいエネルギーを描きます。

僕も当時を生きていないし、ニューヨークに行ったこともありませんが、
それでも本作で描かれたのは、かなり真実に近いことなのではないかと思える、強い説得力があると感じました。

映画の主人公のヴィニーは、美しい妻がいるにも関わらず不倫三昧のトンデモない奴。
手あたり次第の女性関係で、妻も薄々そんな夫の不貞に気付いているものの、「自分にも何か原因があるのでは?」と
妻も思い悩むという感じで、ヴィニーはダメだと分かっていつつも、不倫三昧の日々から抜け出せずにいるダメ男。

ある夜に妻の従姉妹との逢瀬の最中に、近くで“サムの息子”と称される連続殺人鬼の犯行があり、
寸前で自分たちの命が救われたと感じつつも、自分の身近に殺人鬼が迫っていることを悟ったヴィニーは
次第に自分が命を狙われているのではないかと、思い悩み始め、自分が“サムの息子”の顔を目撃したと
近所で勝手に噂を流れていることに恐怖を覚え、次第にドラッグの常用が深刻化してしまい、精神的に崩壊していきます。

ただ、この映画のネックはキャスティングかな。いかんせん、ジョン・レグイザモが主演というのは弱い。
奥さん役のミラ・ソルビーノも悪くはないが、クセの強い映画の中では存在感を今一つ発揮できていない。

ジョン・レグイザモは悪い役者さんではないけど、バイプレイヤーとして光るタイプのせいか、
ここまでクセの強いスパイク・リーが撮ったタフなドラマの主人公としては、どこか弱過ぎる気がする。
ヴィニー役には、もっと強いカリスマ性が欲しいですね。そんな中では、リッチー役のエイドリアン・ブロデイは頑張った。

「アイツは変だ」と勝手に偏見から決めつけられ、排除という実力行使に出てくる恐ろしさ、
そしてそれが暴走した結果、悲劇的な結末をも迎え得る現実の不条理さ、そして残酷さを上手く表現している。
確かに近所では“浮いた”存在であっただろうし、あらゆことを噂されるターゲットであっただろう。
だからと言って、私刑に処されていいわけがないし、事実ではないことを勝手に流布されることが許されるわけがない。

それでも、歪んだ正義心というのは実に恐ろしいもので、ヴィニーとつるんでいた連中は
勝手に“サムの息子”の正体を決めつけ、無根拠に私刑を敢行しようと立ち上がるというわけで、
これは警察が役立たずで真犯人を逮捕できそうな気配がないという頼りなさと、“サムの息子”の存在により
夜間外出の自粛など自由を奪われ治安を乱されたことに対する怒り、異例な猛暑による苛立ちなど、
いろいろなことが人々を暴走させてしまうベクトルに向かわせてしまうわけで、本作はその不条理を描いているわけです。

この連続殺人事件は実話のようですが、この事件にそこまで肉薄したわけではありません。
事件の真相や犯人像をクローズアップして描いているわけではなく、あくまで周辺エピソードがメインなんです。

従って、どこまで事実なのかは分かりませんが、事件に翻弄される人々の人間模様として
観て頂ければ、スパイク・リーがこの時代の異様なまでに高まる熱量だったニューヨークを再現したかったのだと
感じ取ることができると思います。なかなかここまでタフな映画を撮ることはできないので、これは本作の長所だと思う。

ただ、映画のクライマックスはストーリーテラーなる爺さんに喋らせて終わるのではなく、
もっとしっかりと描いて、キチッと物語を終わらせて欲しかった。これはどこか拍子抜けするラストだったと思う。
そのせいか、偏見から憎悪の波に飲まれてしまうことの恐ろしさなど、訴求するものが無かったなぁ。
まぁ・・・この皮肉っぽく映画を終わらせるあたりが、むしろスパイク・リーらしいと言えば、それはそうだけど。

劇中、幾度となく“サムの息子”が常軌を逸したような精神状態で登場してきますが、
実はこの“サムの息子”については何一つ核心に迫った描写があるわけではなく、映画はこの事件を利用しているだけ。
誤解を恐れずに言うなら、スパイク・リーにとって“サムの息子”の事件の動機とかは、どうでも良かったのだろう。

そう思えるくらい、この映画は事件に肉薄しようとしない。群衆の心理を描ければいいという割り切りでしょうね。

スパイク・リーはニューヨークを心底愛しているからこそ、こういうダーク・サイドも描きたくなるのかなぁ。
普通に考えると、こんな内容観ちゃったら、ニューヨークへ行きたくなくなっちゃうんじゃないかと思うんだけど。
いくら治安が悪いとは言え、大規模停電が起きると一斉に店の売り物を強奪しに来る人が押し寄せるなんて、
世界を代表する大都市ニューヨークの姿とは・・・ビックリしますよね。いくら1977年の出来事とは言え。

だから生粋のニューヨーカーなら、こういう姿は描きたくないのかなぁと思いきや、
スパイク・リーは苛立つ群衆をバックに、自分も興奮しちゃってカメラに向かって実況中継しちゃうタイプなんだなぁ(笑)。
しかも映画が進むにつれて、自分がテレビ・リポーターとして登場するシーンを増やすという、芸の細かさ(笑)。

ヴィニーは終始、何かに取りつかれたかのように“サムの息子”の存在を脅威に感じ、
自分の近くにその脅威が迫っているのではないかと疑心暗鬼になってしまい、自身の浮気癖もあって、
妻との夫婦生活は破綻へ向かうという、破滅型の人生を突っ走っていきますが、そんなヴィニー自身が見えない
真犯人の存在に脅えつつも、結果的には自分自身が恐ろしいことに加担してしまうという、これはこれで強烈な皮肉だ。

その割りに、前述したように軽い映画の終わり方をするものだから、余韻なんてあったものじゃない(笑)。

この辺はもっとスパイク・リーが素直に映画を撮っていれば、もっと力のある傑作になっていたと思う。
映画の冒頭の語りから入る導入を見れば、このエンディングも予想できたけど、もっとよく考えて欲しかったなぁ。
いやはや...ホントに、この終わり方は勿体ないよ。映画を悪い意味で、軽くしてしまったように見える。。。

(上映時間142分)

私の採点★★★★★★★☆☆☆〜7点

日本公開時[R−15]

監督 スパイク・リー
製作 スパイク・リー
   ジョン・キリク
脚本 スパイク・リー
   ビクター・コリッキオ
   マイケル・インペリオリ
撮影 エレン・クラス
編集 バリー・アレクサンダー・ブラウン
音楽 テレンス・ブランチャード
出演 ジョン・レグイザモ
   ミラ・ソルビーノ
   エイドリアン・ブロディ
   ジェニファー・エスポジート
   マイケル・リスポリ
   サベリオ・グエッラ
   ベベ・ニューワース
   ベン・ギャザラ
   スパイク・リー
   アンアオニー・ラパグリア