めぐり逢えたら(1993年アメリカ)

Sleepless In Seattle

これは劇場公開当時、日本では結構ヒットしていた記憶があります。

90年の『ジョー、満月の島へ行く』に続いてメグ・ライアンとの共演となった恋愛映画で、
ケーリー・グラントとデボラ・カー共演の名画『めぐり逢い』とクロスオーヴァーさせるように、
愛する妻を失いシングル・ファザーとして生きるシアトルの建築家と、彼と彼の息子が登場した、
ラジオ番組を聞いて、突如として運命に引き寄せられるボルチモアの女性アニーが接近します。

映画は絶妙なほどにトム・ハンクス演じるサムと、メグ・ライアン演じるアニーが同一シーンに登場しないという
設定ではあるのですが、僕が当初聞いていたほどではなく(笑)、まぁ・・・全く同一シーンに映らないわけではなく、
アニーの想いが暴走して彼女がシアトルに来てしまうシーンで、空港と道端でお互いに交差している。

この映画の大ヒットをキッカケにメグ・ライアンが“ラブコメの女王”になったようなもんですが、
本作では彼女のコケティッシュな魅力というよりも、大人の女性としての落ち着いた雰囲気を活かしており、
確かにサムの息子ジョナが慕うには、十分に説得力のある雰囲気ではある。他作品とは微妙に違う路線だ。

監督は女流監督ノーラ・エフロン。彼女だからこそ描けたという側面はあった映画だと思う。
だって、この映画のヒロイン、アニーの行動は冷静に考えたら、凄い発想だ。

男は理屈で考えがちで、それでいて感情的に矛盾に満ちた生き物だから(笑)、
この映画で描かれたアニーのような、若干破綻しかけたキャラクターを違和感なく描きがたいもの。
ましてやアニーには、チョット変だし、母親の指輪を渡すセンスはどうかと思うけど、
それでも大きな不満が伴うわけではない婚約者がいながら、会ったこともない男性に想いを巡らせる。

これは僕は皮肉を言っているわけではなくって、映画はそれくらい常識を超越した世界を描いているのだから、
違和感なく堂々と物語を語ることは、そう容易いことではないということで、それを上手くやってのけたのは、
ノーラ・エフロンという女性の気持ちをよく理解した、女流監督ならではの仕事だったと言っていいと思うのです。

事実として、当時、大ヒットしただけに当時の恋愛映画のトレンドに乗ったということです。

ただ、この映画からは僕には納得性が感じられなかった。
別にサムとアニーのめぐり逢いが現実的にありえない展開であってもいいんです。映画に納得性があれば。
映画として、ありえない展開をありえないままで描いて終わってしまうのは、さすがに良くない。
特に本作は遠く離れた土地に暮らす、当然、お互いに面識も接点もない男女が、しかもお互いに子連れ、
フィアンセと結婚間近という“障害”がある中で、めぐり逢うという設定なのですから、これはホントは難しい題材です。

一見すると、この映画は上手く立ち回ったようにも見える。でも、それはあくまでシナリオ上の話しだ。
この映画には大きく揺さぶられるものがない。まるでありえない出会いなんだけど、そのありえなさも吹っ飛ばす、
サムとアニーに衝撃が走る瞬間くらいの描写が、映画のどこかにあってもいいくらいなのに、そういったものがない。

ハッキリ言って、空港でサムがアニーを一方的に見かけたシーンだけでは不十分だ。
どうやらノーラ・エフロンはあのシーンだけで、映画の納得性を出そうとしたようにも見えるが、
あれだけで「実はサムが運命を感じていました」と物語るには、あまりに平凡なシーン演出過ぎていただけない。

この辺はメグ・ライアンのルックスだけに頼ったようなところも感じられ、どうにも僕はノレなかった。

クライマックスのニューヨークのエンパイア・ステート・ビルの屋上でめぐり逢うのは良いけど、
個人的にはこれをサムの息子が仲介したような演出にしてしまったのは、失敗だったと思う。
多少、ベタだと言われようが、恋愛映画のセオリーを踏むように、サムがアニーを見つけるくらいの勢いが欲しい。
そういうシーンを描いてこそ、サムがアニーを空港で見かけたときに運命を感じていたと象徴できるはず。

とは言え、現代のエポックメイキングな恋愛映画として、これは一つのスタイルなんだろう。
男は恋に晩熟になり、世の中の女性とどうデートしていいか分からず、亡き前妻との日々を忘れられずに
なかなか次へ切り替えることができず、女性は運命を感じてしまえば、婚約者との婚約は解消する。

映画で描かれた、アニーの一方的な婚約解消は賛否あるだろうが、
まぁ・・・好きでもない、若しくは他に気になる存在がいる段階で、他の男と結婚するよりはマシなのでしょう。
本作以前の時代であれば、こういう感性は受け入れられなかった部分はあったと思いますけどね。
そういう意味で、本作のサムとアニーの引き寄せられる恋愛の在り方は、新時代的であったと思うのです。

アニーのフィアンセを演じるビル・プルマンは、チョット可哀想な役回り。
この頃、彼はこんな感じの準主役級の役を多く好んで出演していて、当時、少しだけ注目されていました。

まぁ・・・アレルギー体質は仕方ないにしても、人間的に少し変わっていたキャラクターだったので、
可哀想と思えなくもないけど、最後の最後まで同情をかうキャラクターとも言い切れないだけに、
この扱いは仕方ない面もあるとは思うけど、せめて彼の最後のシーンくらいは、ちゃんと撮って欲しかった(笑)。
あのレストランのシーンで、唐突にアニーとの別れがやって来るなんて、あまりに彼の印象が残らない。。。

彼が良い人間か、悪い人間かはともかく、こういうサブキャラクターは大切にして欲しいのです。

映画のアイデアとしては、やはり当時、斬新に感じられた恋愛映画ではありました。
だって、恋に落ちる男女を描く映画なのに、実質的に同一シーンで最初に映るシーンが
ラストシーンだなんて映画、数を探せど、過去にそういった映画はほとんど存在していなかったからです。

しきりに57年の『めぐり逢い』にインスパイアを受けたことが触れられている映画ですが、
別に本作が『めぐり逢い』のリメークというわけでもなく、酷似した内容というわけでもない。

ただ、個人的にはそれでも強く心揺さぶられる映画ではなかった。
色々と物足りないと感じる部分はあるにはあるのだけど、子供に乗せられる恋愛というのは、
あまり映画的ではないというか、観客を惹き込むほどアトラクティヴなものにはなりにくいのではないかと思う。
この映画のサムを観ていても感じるのですが、どうしても子供に乗せられる側は受動的に映ってしまう。

この辺は作り手ももっと工夫して、サムとアニーがお互いに意思をもって引き寄せられた結果として、
クライマックスの“めぐり逢い”を描いていれば、きっと映画の最後はもっと盛り上がっていたはずだ。

ちなみに当時、何故か日本ではドリカムの曲が主題歌になったかのように
宣伝されていた記憶があるのですが、あくまで日本の劇場版で使われただけで、本国版では流れていませんね。

(上映時間105分)

私の採点★★★★★★☆☆☆☆〜6点

監督 ノーラ・エフロン
製作 ゲイリー・フォスター
原案 ジェフ・アーチ
脚本 ノーラ・エフロン
   デビッド・S・ウォード
撮影 スヴェン・ニクビスト
音楽 マーク・シェイマン
出演 トム・ハンクス
   メグ・ライアン
   ビル・プルマン
   ロス・マリンジャー
   ロージー・オドネル
   ギャビー・ホフマン
   ビクター・ガーバー
   リタ・ウィルソン
   ロブ・ライナー
   キャリー・ローウェル
   バーバラ・ギャリック

1993年度アカデミーオリジナル脚本賞(ノーラ・エフロン、デビッド・S・ウォード) ノミネート
1993年度アカデミー主題歌賞(マーク・シェイマン) ノミネート