ランブルフィッシュ(1983年アメリカ)

Rumble Fish

何故にこの頃のコッポラが突如して、青春映画を撮っていたのか、
よく分かりませんが、前作『アウトサイダー』が好評だったコッポラが続けて撮った青春映画の佳作。

これは、ある意味で哲学的な映画のように見えるのですが、
やっぱり80年代に入ってからのコッポラは、映像作家として“冒険”の時期だったのかもしれませんね。
79年『地獄の黙示録』までのコッポラは、野心的で神懸かり的な創作活動を展開していただけに、
若手の映像作家としてもカリスマ的な存在であったことから、彼の監督作品は注目を浴びてましたからね。

やはり過酷な撮影であったことで有名な『地獄の黙示録』で
コッポラは肉体的にも精神的にもボロボロだったのかもしれません。
そのせいか80年代初頭は『ワン・フロム・ザ・ハート』で突如としてミュージカル映画に挑戦するなど、
これまであまり慣れていない、新ジャンルに挑戦し続けていたことは明白で、リセットしたかったのかもしれません。

音楽はポリス≠フスチュワート・コープランドが担当したり、
コッポラにしては新時代的な人選を行って、映画が随分とアクティヴで若々しい。
主人公の兄貴“バイクボーイ”を演じたミッキー・ロークが、寡黙なキャラクターを貫いたせいもあって、
荒くれな雰囲気と、ストイックさを共存させた映画ではあるのですが、本作は良い意味で活気がありますね。

スチュワート・コープランドの音楽は、ドラマーなだけあって、
ドラムの躍動感溢れるリズムが、映画のリズムそのものになっていて、見事に映画に息を吹き込んでいる。
おそらく当時ポリス≠煢゚渡期を迎えていて、彼自身も次の仕事を模索していた時期なのでしょうね。
そういう意味では、コッポラにとってもスチュワート・コープランドにとっても、幸運なめぐり合わせだったのではないかな。

また、主演のマット・ディロンは勿論のこと、
ダイアン・レイン、ニコラス・ケイジといわゆる“ブラット・パック”世代がキャスティングされており、
本作以降、ジョン・ヒューズらが青春映画のヒット作を連発させますが、個人的にはコッポラがトリガーだったと思います。

個人的には90年代以降のコッポラは完全に低迷してしまった気がしていて、
この80年代のチャレンジが正解だったのか否かは分かりませんが、一つのターニング・ポイントだったのでしょう。
当時のミッキー・ロークはカリスマ性を感じさせる俳優だったので、彼のストイックな魅力を生かしたようで、
荒くれ者の気性が荒いマット・ディロンを対照的に描くことで、映画にメリハリを付けたかったのでしょうね。
それは敢えてモノクロ・フィルムで撮りながらも、魚に原色の着色をすることにも、その意図を感じさせますね。
こんなアプローチは、絶好調だった70年代だったら無かったことですね。それくらい、色々と考えていたのでしょう。

本作の後に撮る84年の『コットンクラブ』までが、コッポラが描くヤング・アダルト三部作ですが、
86年に『ペギー・スーの結婚』を撮ったあたりを考えると、新ジャンルに挑戦し続けていたとは言え、
彼のキャリアを考えると、混迷を極めた時期だったのかもしれません。事実として、莫大な予算を投じて、
経済的な大ダメージを受けた『ワン・フロム・ザ・ハート』から、80年代は3度、自己破産を経験しているようです。

経済的にも苦しい時期でしたが、おそらく映画監督としても厳しい時期だったことでしょう。
個人的にはコッポラの熱心なファンというわけではないけど、『ゴッドファーザー』の頃のような鋭さはなく、
彼自身もそれを自覚していたのか、意図的に新しい流れを作ろうと必死になっていたような気がしてなりません。

そういう意味で、『アウトサイダー』や本作などがそこそこ評価されたことは
コッポラにとっては大きかったのではないかと思えるのですが、それが好材料にはなりえなかったようですね。

本作で特に印象的だったのは、不良たちが毎夜のように乱闘を繰り返すことに、
主人公はリーダー格である兄を尊敬していたからこそ、「街を支配することができる」ということに意味を見出し、
乱闘を繰り返すことに大義を感じていたようですが、“バイクボーイ”である兄は「何も無かった」と言い放つシーン。

夜ごと乱闘を繰り返す若者たちの無益な闘いを断罪するのですが、
それを“バイクボーイ”が助長していたことを考えると、彼もまた罪深い存在で「何も無かった」なんて、
言い放てるほど褒められた立場ではない。でも、敢えてこの映画は彼をどこかシンボリックに描いている。
それはある意味で、本作のクライマックスのあり方も、カッコ良過ぎるようにも見えてしまう。
これもまた、作り手が“バイクボーイ”をどこか哲学的な存在として描こうとする意図があったように思います。

若き日のニコラス・ケイジ演じる主人公の友人が象徴しているのですが、
不良グループが誕生したとは言え、実のところホントに参加したくてケンカをしている人はおらず、
ほぼ中心的存在の人間に追従するかの如く、主だった意思もなくケンカにかり出され、参加させられている。

だからこそ、グループが統率力を失ったときの反動は大きく、
マット・ディロン演じる主人公は、恋人を奪われ、夜ごと行われるケンカで自分だけが負傷していく。
そうなってしまうと、それまで仲間だった連中も、突如として傍観者になってしまう。これは実質的なグループの崩壊だ。
この映画のポイントは、“バイクボーイ”がカリスマ性を弱まったときこそがポイントで、そこから一気に動き出します。

ただ、この映画のウィークポイントはどこか決め手に欠けるところである。
ダイアン・レイン演じる主人公のガールフレンドも同様。勿論、彼女の存在自体はキリッとした美貌で、
どこか光り輝くハリウッド女優としての気品を感じさせる存在感で、彼女がブレイクした理由はよく分かる。

しかし、コッポラとしては映画のヒロインとして考えたときに、
彼女の存在を最大限生かし切れたかと言われると、もっとインパクトある持ち場を与えることはできたと思う。
結末のあり方は一緒だったとしても、違う描き方があったと思うし、特に映画の後半はもっと絡ませて欲しかった。

この映画のダイアン・レインは、多くの観客に「もっと彼女を見たい!」と思わせるくらい、
ヴィジュアル・インパクトはあったと思えるだけに、もっと主人公を翻弄する有り様を描いて欲しかった。

そこはコッポラが単純に不調だったのか、S・E・ヒントンの原作に
大きなアレンジメントを加えがたかったのか、詳細は分かりませんが、どこか物足りなさが拭えない。
本作の場合、映画の物足りなさは大半がダイアン・レイン演じるヒロインの描き方そのものの物足りなさではないか。

とは言え、映画のクライマックス...特にエンド・クレジットに入るまでが異様にカッコ良い。
魚を自由に解き放ち、自らの精神を自由に解き放つために、兄貴の言葉を信じてバイクを海へと走らせる。
まぁ・・・褒められた主人公ではないので、過剰にヒーロー化することはありませんが、それでもカッコ良いラストだ。

何はともあれ、80年代青春映画ブームの潮流に上手く乗った一作であり、
本作が評価されたからこそ、80年代半ばの青春映画ブームみたいな風潮は、本作も原点の一つだろう。

(上映時間94分)

私の採点★★★★★★★☆☆☆〜7点

監督 フランシス・フォード・コッポラ
原作 S・E・ヒントン
脚本 S・E・ヒントン
   フランシス・フォード・コッポラ
撮影 スティーブン・H・ブラム
音楽 スチュワート・コープランド
出演 マット・ディロン
   ミッキー・ローク
   ダイアン・レイン
   デニス・ホッパー
   ダイアナ・スカーウッド
   ビンセント・スパーノ
   ニコラス・ケイジ
   クリス・ペン
   ローレンス・フィッシュバーン
   トム・ウェイツ
   ソフィア・コッポラ