太陽がいっぱい(1960年フランス・イタリア合作)

Plein Soleil

この映画は何度観ても面白いですね。やっぱり優れた出来の、文字通り「秀作」ですよ。
パトリシア・ハイスミスのサスペンス小説の映画化で、後に『リプリー』と呼ばれるリメークも製作されました。

監督はフランス映画界の名匠ルネ・クレマン。本作はおそらく彼の代表作でしょうね。

サンフランシスコで息子フィリップを探して欲しいと報酬を引き換えに友人トムに依頼したところ、
フィリップが恋人と共にイタリアに滞在していたところをトムが合流し、トムが報酬を得るためにフィリップを
サンフランシスコに戻そうと画策するものの、トムの野心を刺激し、やがては完全犯罪を目論む姿を描いたサスペンス。

本作の世界的大ヒットのおかげで、フランス映画界を代表するスター、
アラン・ドロンが国際的映画俳優としてブレイクし、数多くの名画に出演するようになっていきます。

実際、僕もこの映画は素晴らしい出来だと思う。やや物足りない部分もないわけではないが、
映画の風格、ラストの味わい、どれを取っても一級品でいろいろなニュアンスが解釈できる魅力的な作品だ。

一説によると、この映画は映画の中で同性愛をテーマに扱った最初の作品とのことですが、
確かに映画の前半にトムがフィリップと恋人が同棲する部屋の衣裳部屋で、トムがフィリップの物まねをして、
それを目撃したフィリップがトムを奇異な目で見るシーンがあります。ルネ・クレマンがどういう意図であったかは
僕には分かりませんが、僕には本作は同性愛という枠組みに留まらずに、トムが完全にフィリップの人生を乗っ取るという
通常では考えられない野望の強さを感じさせる、あまりに強烈なテーマを抱えた作品だと思いました。

映画の冒頭から、トムがしきりにフィリップのサインをマネているシーンがありますが、
トムが“やる!”と決めたら、そのために映写機を買って壁に映し出して、一筆書きでスラスラと書けるようになるまで
繰り返し練習するし、気づけばフィリップの声真似まで出来るようになる。そうなると、どのように撮影したのかは
分からないけど、ルネ・クレマンもトムのアップカットがまるでフィリップであるかのように撮影している。

これは既にトムがフィリップの人生を乗っ取り始め、ついにフィリップの恋人マージまで
手にしようとしている時で、トムの野望が達成する直前というところまできていた。この野望が達成されたという、
ある種の充実感や征服感というのを象徴したのが、本作の映画史に残る有名なラストシーンでしょう。

太陽が照りつける、焼けこげるような灼熱の海沿いのトムが行きつけのバーで、
店の叔母ちゃんに「太陽がこんなに照りつけて気分は最高さ。最高の飲み物を頼む」と、充実した表情で言い放ちます。
この邦題もよく考えたなぁと思いますが、トムの充実感と先に待ち受ける“影”が対照的で、実に魅力的なラストシーンだ。

トムを演じたアラン・ドロンのカリスマ性ある存在は言うまでもありませんが、
本作はフィリップを演じたモーリス・ロネも、そして彼の恋人マージを演じたマリー・ラフォレも実に素晴らしいです。

モーリス・ロネは金持ちの放蕩息子を演じているのですが、とにかく自分勝手な振る舞いでスゴい。
すぐにナンパするし、自分の気分次第で相手の予定変更もするし、恋人のマージもハッキリ言って、彼に振り回される。
よくこんな男と付き合うなと感心するが、欲を言えば、本作はこの点が不足でフィリップの魅力をキチッと描いて欲しい。
これでは、マージが彼と離れられない理由がよく分からないし、ただ金を持っていることが魅力という解釈になってしまう。

でも、本作で描かれたマージを観る限り、ホントに彼女はフィリップを愛しているのだろう。
トムはフィリップの金に魅力を感じていただけかもしれないが、どこかフィリップに人間的魅力が感じられないのは残念。

一方で、フィリップは早い段階でトムの奇妙さに気付いていたというところで
フィリップなりに警戒はしていたのだろう。そもそもフィリップは父親と結託して、報酬目当てで近づいてきた旧友に
疑惑や軽蔑の視線を向けていたわけで、映画が進むにつれてトムとフィリップの関係性は怪しくなっていきます。

その決定打となったのは、やはりトムがボートに乗せられて漂流したエピソードで
あの後にフィリップに向ける目線を変えるアラン・ドロンの芝居は、素直にスゴいと思った。あれが“決行”の合図だ。

しかし、このトムの詰めの甘さは、映画が仕掛けておいた良心かな。
完全犯罪はそう上手くはいくわけがないが、映画である以上、不条理なストーリー展開にすることも可能だと思う。
つまりトムの目論み通りに何もかもが進み映画が帰結する。ただ、このトムにも打算的なところは多くある。
だからこそ、悪事は必ずいつかは報いがあるということを、映画の中で淡々と綴ることができるのですよね。

例えば、いくらフィリップに関する書類を偽装して、彼を名乗れたとは言え、
欧州の方々に友人がいるようなフィリップの名前を使って、ホテルを借りるのに、変装もせずにいるのは“不用心”。
実際問題、これが原因となってフィリップの友人のフレディに気づかれてしまうという、失態をおかしている。

それから、疑いを持ったフレディがトムのいる部屋に乗り込んできたところで、
トムは何の計算も無しに、まるで行き当たりばったりのように待ち伏せをして、フレディに襲いかかる。
せっかくフィリップになり済ましたところまで出来上がったのに、更に犯行を重ねようとすることは不合理に思う。
それも何の計画も無しにです。たまたま、トムが後付けで自分を納得させるように動きますが、これは偶然に近い。

フレディを酔っ払いに見立てるシーンは、ほとんどギャグのようで現実感は無いですね。
見るからに重そうなフレディをトムが抱えて階段を降りて運ぶなんて、どう考えても無理な展開にしか見えない。

つまり、仮にトムが強烈な完璧主義者で何もかも計算づくで動いて、
現実がその通りに運べば、彼の目論見は成功するわけで、ルネ・クレマンは脚色してでも、そう描くことは可能だった。

しかし、おそらくパトリシア・ハイスミスの原作を尊重することと、
ルネ・クレマンもある意味では、完全犯罪の難しさを描きたかったのではないかと思うし、もっと言えば、
どちらかと言えば、トムの犯罪そのものを描くというよりも、トムの姿を通して、人間の欲深さを描きたかったのだと思う。
それゆえ、サスペンスもそれなりに盛り上がり、冷や冷やする場面もあるが、トムの異様さが際立つ演出になっている。

贖罪の念などまるで感じさせず、まるで人生という名のゲームの勝者のように充実した表情を見せ、
優雅に椅子に座り、フィリップの人生を乗っ取ってやったという征服感と、犯罪の達成感に満ち溢れる異様さ。
しかし、皮肉にもトムが気づかないところで、フィリップの“復讐”というか、運命が味方しない強烈なラストが印象的だ。

僕はこの描き方に、どことなくルネ・クレマンが当時のフランス映画界のニューシネマ・ムーブメントであった
ヌーヴェルヴァーグ≠意識した姿勢だなぁと感じます。ルネ・クレマンはヌーヴェルヴァーグ≠ニ
対極する立場にあるディレクターであると見られていますし、ゴダールらとは全く違うアプローチをしていますが、
本作のラストのあり方や演出を見ても、従来とは何か違う映像表現をしようと目指していたのではないかと思います。

別にルネ・クレマン自身がヌーヴェルヴァーグ≠フ一派として見られたかったわけではないでしょうが、
当時のヨーロッパ映画界はハリウッドに先駆けてニューシネマ・ムーブメントが巻き起こっていた時代で、
映画のスタンダードが変わりつつある時代でしたから、ルネ・クレマンもその潮流を意識していたのかもしれません。

アラン・ドロンなんて、そういった時代性を象徴するスターと言えば、そのような気もしますしね。

しかし、このルネ・クレマン、結果としてはゴダールのようにカリスマ性を評価されることなく、
力のある映画を何本も発表しながらも、あまり評価されないまま他界してしまったという気がしてなりません。
日本でも彼の監督作品は数多く劇場上映されており、フランス映画界の巨匠であることは間違いないのですが・・・。

個人的には今一度、再評価して欲しいディレクターの一人なんですよね。

(上映時間118分)

私の採点★★★★★★★★★☆〜9点

監督 ルネ・クレマン
製作 ロベール・アキム
   レモン・アキム
原作 パトリシア・ハイスミス
脚本 ポール・ジェゴフ
   ルネ・クレマン
撮影 アンリ・ドカエ
音楽 ニーノ・ロータ
出演 アラン・ドロン
   モーリス・ロネ
   マリー・ラフォレ
   エルノ・クリサ
   ビル・カーンズ
   フランク・ラティモア