パリで一緒に(1964年アメリカ)

Paris When It Sizzles

1年のほとんどの期間を、製作者からの借金でリゾート地などで遊びまくっている、
ハリウッドで活躍する脚本家が、女性タイピストを雇って、酒を飲みながら考えたシナリオを右往左往させ、
タイピストの意見を採り入れながら、シナリオを綴っていく様子をコメディ・タッチで描いた一風変わった恋愛映画。

天下のオードリー・ヘップバーンの主演作品なので、オードリーの魅力全開の一作になっていますが、
正直言って、映画の出来としては芳しい出来ではない。ストーリー自体は面白いが、それ以外はサッパリな感じ。

監督のリチャード・クワインは、子役として俳優デビューしながらも、途中から監督に転身しましたが、
監督としては60年の『スージー・ウォンの世界』が評価されたくらいで、大成することはありませんでした。
正直言って、この映画を観ると、その腕前はなんとなく分かる気がします。出来た映画に特徴が無い。

この頃のオードリーの出演作品にしては、本作の影が薄いなぁと思っていたのですが、
まぁ、全く見どころがない映画というわけではないのですが、アイコンとしてのオードリーという意味ではインパクトに
欠けるかもしれません。オードリーの衣装デザインはジバンシーらしいのですが、あまりファッションが目立たない。
これは相手役が撮影当時、アル中で酷かったとされる、ウィリアム・ホールデンだったこともあるかもしれません。

オードリーとウィリアム・ホールデンの共演は54年の『麗しのサブリナ』以来、2回目の共演なのですが、
正直、本作は『麗しのサブリナ』から10年も経っていないというのに、ウィリアム・ホールデンの老け込みっぷりが
あまりに目立ってしまっていて、撮影当時44歳だったというのに、結構、お爺ちゃんに近づいている感じ。。。

やはり当時のウィリアム・ホールデンは結構な苦労をしていたのではないかと思います。
昔の44歳なので、今ほど若くは見えないのは承知とは言え、本作のウィリアム・ホールデンはホントに老け込んでいる。
『麗しのサブリナ』から本作の撮影までは10年足らずだったのですが、このギャップは正直、小さくないと思いましたね。

それゆえ、あまりオードリーが引き立てられていないというか、
無理矢理に近い世代のカップルとして演じようとしていて、なんだかアンバランスな感じに見えてしまった。
勿論、ウィリアム・ホールデンは名優だし悪い役者さんではないのですが、時期が悪かった出演作という気がする。

それでも、ハリウッドのトップ・スターとしての意地で演じ通したのはスゴいと思うけど、
この辺は監督のリチャード・クワインも、もっとフォローしてあげて欲しかった。観ていて、なんだかツラい・・・。
いただけないのは、オードリーと行動を共にするにしては、ウィリアム・ホールデンの着こなしがイマイチなことだ。
オードリーのオシャレについて行けていないし、引き立て役にもなり切れていない。ひどく中途半端に映ってしまう。

劇中劇のスタイルをとっていて、脚本家とタイピストが即興的に作り上げていくシナリオを
そっくりそのまま描いており、書き直しや修正が入るたびに劇中劇がリセットされていくというユニークさで、
それを真正面から展開させていく手法はお見事で、確かに本作の原作はスゴく面白い着想点を持っていると思う。

それを人気絶頂期のオードリーと綴っていくのですから、本来であればもっと面白くなったはず。
ウィリアム・ホールデンももっとカチッとしている時期だったら、引き締まったのでしょうけど、どこかパッとしない。
そして監督のリチャード・クワインもそれら補う術はなく、そのまま映画化してしまうのでストーリー以上の新鮮さは無い。

映画の冒頭のヘリコプターを使った空撮と思われるオープニング・シーンからして、
この時代の映画にはハードルの高い撮影だったとは思うのだけど、技術力がない時代だから映像に酔いそう(笑)。

リチャード・クワインも何故にこんな演出を選択したのだろうと不思議に思っていたのですが、
これはこれで映画が進むにつれて明らかになるのですが、脚本家の考えていたショットそのものなんですね。
劇中劇『エッフェル塔を盗んだ女』のオープニング・ショットとシンクロするのですが、あくまで直感的なものであり、
別にこの撮影を敢行する理由なんて無かったんですね。まぁ、それにしても違和感があり過ぎるショットでした。

そんなこんなで映画が動き出したら、脚本家とタイピストがあーでもない、こーでもないと言い合いながら、
物語は徐々に肉付けされていきます。脚本家が考えていた物語のベースは、あくまで恋愛であることが明白になると、
アッサリと脚本家がオードリー演じるタイピストの唇を奪ってしまうことにはビックリ。今だったら、訴えられますよ(笑)。

それも話しを聞いていたオードリーもいつの間にかウットリしているのが、
また印象的で本作でのオードリーはコメディエンヌとしての魅力を、フルに生かしている印象を受けました。
ウィリアム・ホールデンのコンディションの問題はありながらも、撮影は実に快調に進んでいたそうだ。

脇役で出演しているトニー・カーチスは、なんだか可哀想な役どころ。
チョイチョイ登場してくるのですが、あまり見せ場を与えられていない。既にスター俳優だったはずなので、
この扱いの軽さにはビックリですが、ホントにチョイ役だったマレーネ・ディートリッヒとかよりは良かったのかもしれない。

まぁ・・・今どき、こんな脚本家もハリウッド広しと言えど、もう皆無でしょう。
こういう知的労働は、昨今話題となっている人工知能(AI)の発達で仕事を脅かされていくのかもしれません。
本作でウィリアム・ホールデンが演じたような、お気楽な飲んだくれ脚本家ではAIに取って代わられるかもしれません。
(まぁ・・・さすがにAIに書かせた映画用の脚本については、業界でも反対の声が上がってますけどね...)

だいたい、時代が違うとは言え、この脚本家はトンデモないセクハラ親父だし、
そんなセクハラを受け続けても、全く動じないヒロインというのも現代の感覚で観れば、スゴい違和感。
ましてや、「満室だからオレの隣の部屋で寝なさい。そんな気はないから、安心なさい」なんて言われて、
いきなり寝室を見せられたら、そりゃ誰だってこの仕事を断わりますよね。そう思うと、スゴい都合の良い設定だ。

この無理矢理な設定さえ飲み込めば、あとはハリウッドの底力と言わんばかりに
めくるめく主演コンビの妄想(空想?)を炸裂させて、劇中劇を構成していくのでトントン拍子に物語が進む。

この劇中劇、『エッフェル塔を盗んだ女』も全く謎なストーリー展開ではあるのですが、
根本的にウィリアム・ホールデン演じる脚本家だって、真剣に脚本を執筆しないと自身の地位が危ないというのに、
なかなかまとまらない考えもあってか、シリアスな表情して「ひらめいたぞ!」と映画のシーンを考えていくけど、
どこかピントがズレ続けたような内容になっていて、どこまで真剣に取り組んでいたのかが、サッパリよく分からない。

一応、本作はフランス映画のオリジナル脚本に想を得て、脚色した作品のようですので、
元ネタはあるのですが、原作者がこの脚本家のように、早く脚本を執筆しなければならない状況にも関わらず、
なかなか仕事に身が入らないところに、自分が脚本を書くのに苦労する状況をそのまま脚本にしようと思ったのかも。

発想の転換と言えば、当てはまりますけど、普通にやってたら思いつかないような内容ですからね。

映画にもう一つ、何かしらのアクセントを付けて欲しかった。
こういうことをリチャード・クワインに求めるのは酷だったのかもしれないが、ストーリーは独創的で面白いだけに
このシナリオの良さを生かせるディレクターがメガホンを取っていたら、映画は格段に良くなったでしょうね。
劇中劇の見せ方にしてもそうなのですが、脚本に書いてあることそのままを撮ったというだけなので、
大きなインパクトを残すシーン演出というのは全く無い。そのせいか、せっかくのオードリーも輝いていない。

少なくとも、ビリー・ワイルダーやブレーク・エドワーズが監督してたら、
こんな仕上がりではなかっただろう。無いものねだりをしても仕方ないが、それくらい監督の重要性を感じさせる。

オードリーのファンであれば必見の一作だとは思うけど、
いつものオードリーの調子を期待されるとツラいかも・・・。劇中劇のヒロインは常にオードリーが演じる設定ですが、
全体的な動きが乏しく、ウィリアム・ホールデン演じる脚本家とのロマンスもあまり魅力的なものではありません。

そういう意味では、とっても勿体ない作品だと思う。誰か、またリメークしないかな・・・?

(上映時間110分)

私の採点★★★★★☆☆☆☆☆〜5点

監督 リチャード・クワイン
製作 リチャード・クワイン
   ジョージ・アクセルロッド
原作 ジュリアン・デュイヴィヴィエ
   アンリ・ジャンソン
脚本 ジョージ・アクセルロッド
撮影 チャールズ・ラング
音楽 ネルソン・リドル
出演 ウィリアム・ホールデン
   オードリー・ヘップバーン
   トニー・カーチス
   ノエル・カワード
   マレーネ・ディートリッヒ