ペイルライダー(1985年アメリカ)

Pale Rider

イーストウッドがスターダムを駆け上がるキッカケとなった西部劇が、
映画界でも斜陽の時代になっていた1985年、映画監督としてのキャリアも積み上げ、
堂々と原点回帰とばかりに、イーストウッド自身が積み上げてきた西部劇の良心を再現した作品。

僕はこの映画、イーストウッドが監督した西部劇としては、とても出来の良い作品だと思います。
賛同は得られないかもしれませんが、92年の『許されざる者』よりは個人的には好きな作品ですね。

そらぁ、撮影当時55歳くらいだったイーストウッドが堂々と主人公をはっていて、
助けた集落の人々から英雄視されて、挙句の果てには15歳の娘から結婚を迫られたり、
その母親から「貴方にときめいていたの」と告白されたり、そんな姿を自分の監督作品で演じることができる、
イーストウッドの厚かましさというか、独特なナルシズムが鼻につく人もいるかもしれません。

しかし、僕が思うに、それも含めてクリント・イーストウッドという人なんです(笑)。

普通に考えて、そこまでモテモテというのも分かるよう、なんだかよく分かりません。
そこまで主人公の牧師が魅力的な男だとは思えないし、別に男尊女卑というわけではないのでしょうが、
イーストウッドが彼なりに“俺様”感を出していたのかもしれない。でも、それがイーストウッドなのです。

挙句、本作のクライマックスなんで、まんま『シェーン』のようだ。
これはイーストウッドが意識していたのか否かは定かではないけど、牧師でありがなら実は凄腕のガンマンという男が
たまたま立ち寄った田舎町で、鉱山の権利を奪うために実力行使に出ていた連中の横暴に悩まされていた
鉱山に集落を形成して生活する人々を助けるということで、最後はまるで物言わぬ英雄として去って行く。

しかし、それを叫ばせるのが、子供ではなく、15歳の娘というのがイーストウッドらしい。
クドいようですが、本作はこういったイーストウッドの“ワールド”を理解しなければ、良さが分からないでしょうね。

欲を言えば、牧師に対抗する6人の部下を連れた保安官ストックバーンを、
もっと怖い存在として描いて欲しかったですね。そういう意味では、映画の序盤でもっと登場させてもいいと思える。
映画のクライマックスだけで登場して、恐怖を強調するというのは少々無理があるように感じられますね。

よく言われることですが...
イーストウッドの師であるドン・シーゲルが76年に『ラスト・シューティスト』を撮り、
往年の西部劇スターであったジョン・ウェインの終焉を告げるかのように、彼の最期を描きます。
これは映画史的にはとてつもなく大きな出来事で、ドン・シーゲルが西部劇に息の根を止めたとさえ言われます。

これを観てしまえば、イーストウッドにしてもよほど素晴らしい企画に出会えない限り、
西部劇の映画を撮ることができなかったのではないかと推察され、満を持しての撮影だったのだろうと思う。

そういう気合を感じさせるのは、ブルース・サーティースのあまりに美しいカメラで、
15歳の娘に「愛してる・・・」と言わせたのはさておき(笑)、人助けをして山奥に去っていく、
叙情的なエンディングは、抜群のロケーションとブルース・サーティースのカメラのおかげでしょう。
この辺は久しぶりに西部劇を手掛けたイーストウッドの気合と、彼の西部劇に対する深い愛を感じさせます。

イーストウッドにとっての原点回帰だなぁと感じさせるのはそれ以外にもあって、
彼自身が演じている牧師にしても、シルエットがまんま侍のようだ。これは『荒野の用心棒』の頃から一貫した、
イーストウッドなりの黒澤 明に対するリスペクトでしょう。ややうつむきがげんで、表情がよく見えない。
どんな武器を携えているかも分からず、無口で自分の素性も明らかにしない。そして、世直し屋である。
これは黒澤 明が描き続けた、三船 敏郎そのものであると言っても過言ではなく、イーストウッドの憧れだろう。

こういう姿を見ると、イーストウッドはやはり西部劇を息途絶えさせないために、
彼なりに研究を重ね、中途半端ではない本格的な西部劇を撮ることで、彼自身が継承者の一人であると、
映画の中で声高らかに宣言しているかのようで、ドン・シーゲルやセルジオ・レオーネへのリスペクトもあるでしょう。

やはり、本作のような監督作品があったからこそ、
イーストウッドは92年の『許されざる者』で、ある種の集大成のような西部劇を発表するに至ったのでしょう。
そういう意味で本作は、イーストウッドにとって価値のある、意義深い一作だったのだろうと思いますね。

ハッキリ言って、映画のストーリーは使い古されたものであり、ごく単純な物語です。
しかし、イーストウッドの西部劇に対する深い愛と、彼特有のナルシズムで埋め尽くすあたりが、なんともニクい。

それでもツボを押さえたイーストウッドの演出で、押し切ってしまう強さが素晴らしいですね。
使い古されたストーリーでも、しっかりと見せてくれますし、これは物語を楽しむ映画とは違うと思います。
ブルース・サーティースのカメラに拠らず、ジョエル・コックスの編集など、スタッフの仕事ぶりも良いですね。
そういう意味ではイーストウッドが映画監督として成功することに寄与したスタッフが、、実に良い仕事をしています。

それから、本作の中で一際印象に残るのは、住民たちを脅す連中の手下として、
リチャード・キール演じる大男が登場することで、彼は大きなシルエットということもあり、インパクトが大きい。
そして当初は、住民たちに力を見せつけるために表に出て、巨大な石を破壊しようとしたりするのですが、
実は襲われた娘を助けたり、心優しいところがあるという設定で、牧師に一度やられたらアッサリ寝返り、
クライマックスの攻防では一転して、牧師に合図して彼を助ける存在になるというのが、実に印象的だ。

この辺は僕の素人考えでは、もう少し説明しても良かったとは思うのですが、
あまり深く語らないというところが、逆にイーストウッドらしい良い意味での省略で、この映画の良さなのかもしれない。
(残念ながらリチャード・キールは自動車交通事故で障害を負い、2014年に他界してしまいましたが・・・)

馬に乗ってのガン・アクションが無いのは寂しいけど、
クライマックスのストックバーンの部下が、食堂に入った牧師を追って、銃撃するシーンからの
「終わったか?」はあまりにカッコ良過ぎる展開だ。監督兼任の特権なのか、イーストウッドがカッコ良過ぎる(笑)。

この映画の主人公には敢えて、役名がない。皆、“牧師”と呼ぶだけだ。
これは映画を最後まで観終わって感じますが、主人公は神に近い存在として、神々しく描いたのでしょう。

それをイーストウッド自身が演じることに賛否はあるでしょうが、
やはり本作はイーストウッドが原点回帰し、西部劇に再び命を灯させるための企画であり、
その決意をドン・シーゲルやセルジオ・レオーネに示した作品であって、そんな神々しい主人公のガンマンを
演じるに値する役者は、撮影当時はイーストウッド自身の右に出る者はいないとの判断だったのではないかと思う。
でも、そうであったとしても、本作を観終わって感じますが、僕はその判断は間違いではなかったと思います。

前述した徹底した主人公の役作りや彼が演じ続けて作り上げたシルエットは、
実に的確なものであり、古き良き西部劇のテイストも損なわない、実に深いものであったからです。

本作で西部劇の継承者として名乗り出たイーストウッドも、幾度となく西部劇の企画をあげてはいるのでしょうが、
やはり商業性に乏しいという判断なのか、そう簡単にプロダクションが企画にOKをださないようですね。
でも、個人的には...あともう1本、イーストウッドには西部劇を撮って欲しいのですよね。

もう、イーストウッドくらいしか撮れないと思うのです。本格的な正統派な西部劇映画って・・・。

(上映時間115分)

私の採点★★★★★★★★★☆〜9点

監督 クリント・イーストウッド
製作 クリント・イーストウッド
脚本 マイケル・バトラー
   デニス・シュリアック
撮影 ブルース・サーティース
編集 ジョエル・コックス
音楽 レニー・ニー・ハウス
出演 クリント・イーストウッド
   マイケル・モリアーティ
   キャリー・スノッドグレス
   シドニー・ペニー
   リチャード・キール
   クリストファー・ペン
   リチャード・ダイサート
   ダグ・マクグラス
   チャールズ・ハラハン
   ビリー・ドラゴ
   ジョン・ラッセル