マンディンゴ(1975年アメリカ)

Mandingo

アメリカの最たる黒歴史とも言える、奴隷制度。

19世紀半ばのルイジアナの農園を舞台に、黒人奴隷を“購入”してきては、
まるで家畜のように扱い、日常生活のストレスや欲求のはけ口として閉鎖的な生活を送り、
資金が必要になったら、誕生した子供を売り飛ばすという非人道的な行為を繰り返す姿を通して、
奴隷制度の暗部と人間の歪んだ心を、まるでホラー映画のように描いた陰鬱なドラマ。

監督はカルトSFを得意としていたリチャード・フライシャーで、
今回は名プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスの力を借りて、いつもより大きな企画を担当しているが、
仕上がった映画はやはり、どこかカルトな雰囲気を醸し出しており、個性的な映画になっている。

農園の構図としては、自らの血を引き継いだ孫の誕生を望む、
農園主マクスウェルをジェームズ・メイソンが演じ、彼は根っからの黒人差別主義者だ。
黒人を奴隷として扱うことは当然と主張し、北部の奴隷制度撤廃論者のことを敵視している。
自らは重症化したリウマチに悩まされるも、医師から他人の腹に足を強く当てるとリウマチは移ると言われ、
彼は何も根拠の無い、この説を信じ、奴隷である黒人少年の服を脱がせて、自分の足元に寝かせて、
ずっと足を少年の腹を踏んで、椅子にふんぞり返っているという、トンデモない人でなしだ。

そんなマクスウェルから孫を望まれ、早く白人女性と結婚するように言われる、
マクスウェルの息子ハモンドは、黒人奴隷に囲まれた日々に育ったためか、奴隷に囲まれる生活に
違和感は無いようだが、多くの白人が行う虐待行為や人間の尊厳を蔑ろにする行為には疑問を抱いている。

奴隷を抱くことをマクスウェルから推奨されていたため、
ハモンドは周囲の若い黒人女性を片っ端から抱くが、その中でも純粋な心を持ちハモンドに接する、
エレンという黒人女性を真剣に愛するようになり、次第に結婚した白人女性ブランチも遠ざけるようになります。

ブランチはブランチで、ハモンドから全く相手にされず、
挙句の果てにはハモンドがエレンを妊娠させたことを知り激怒し、酒に溺れ、エレンに暴力を振い、
ハモンドが屈強な奴隷として優遇していた黒人男性ミードを寝室に招き入れる・・・という、複雑怪奇な人間模様。

マクスウェルはまるで黒人男性を種馬のように扱い、
平然と「早く交配させろ!」と競走馬のような言い方をする傍若無人さで、問題の根深さを感じさせます。

確かにこの映画でのリチャード・フライシャーの洞察力は実に鋭く、
やたらと広いマクスウェルの屋敷の閉鎖的環境を強調するためか、昼のシーンでも屋敷内はやたらと暗い。
まるで幽霊屋敷であるかのように描かれ、同じ屋敷内でも一体、何をやっているのか分からない恐怖感がある。
その積み重ねから、彼らの生活の奇異さを表現するのですが、自然光で生活していた当時の再現でもある。

当時の情勢を考慮すると、いろいろな意見があるだろうが、
この映画の中では奴隷制度をいろんな観点から捉えていて、黒人の視点から見た軋轢も描かれている。

黒人の間では、おそらく当時、奴隷として白人にペコペコして仕える黒人がいるからこそ、
奴隷制度自体が無くならないと主張する論調もあっただろう。実際、この映画でもそういうことが描かれている。
しかし、奴隷となっている身から言うと、既に出来上がった圧倒的な支配力を持って支配されているため、
「生きるために、そうせざるをえない状況」なのである。従わないと売り飛ばされたり、殺されたりするのだから。

それを証拠に、映画の中盤であまりに過酷な黒人奴隷同士の拳闘シーンがあるのですが、
黒人同士がお互いに血みどろになりながら殺し合いうことに疑問を抱く、黒人も多かったはずだ。

答えの出ない議論ではありますが、奴隷の中には人間としての尊厳を叫び、
死んでいった奴隷(シセロ)がいたことも描かれており、画一的な内容にならないよう配慮されており、
おそらくリチャード・フライシャーなりに映画のバランスを整えようと、苦慮した痕跡がうかがえる。

しかし、いかんせん内容が内容なだけに、強く訴求するものが無い。
当時、ディノ・デ・ラウレンティスがこの原作のどういった部分に惹かれて映画化したのか分からないが、
思わずひょっとしたら、白人と黒人の交わりということだけに好奇心を持って映画化したのではないかと
疑いたくなるほど、アメリカの黒歴史を通して、観客に訴求する力強さが感じられないのは残念。

でも、これは正直、内容が内容なだけにリチャード・フライシャーにはどうしようもないことだろう。

勿論、リチャード・フライシャーが映像化するにあたって、
シナリオの筋書きを大きく変更するという選択肢もあったかもしれませんし、それを検討するのは
ディレクターの責任だと思いますが、ディノ・デ・ラウレンティスのプロダクションということもあり、
ひょっとしたらリチャード・フライシャーにはそこまでの発言力が無かったのかもしれません。
今一度、この映画を通して疑問だったのは、映画化するという原点にあった狙いが、何だったのかということ。

僕はこの映画で、観客に強く訴求するものがないというのは、致命的ではないかと思うのですよね。
今でも本作が半ばカルト映画のような扱いを受けていしまうのは、こういう要因があるからだと思います。

正直言って、かつて奴隷制度に関する映画は数多く製作されてきましたが、
同一テーマを持った他作品には及ばぬ出来と言われても仕方ないかなぁと思います。
それは映画のコンセプトからして、明確な差があったと言わざるをえないですね。

数年前に待望のDVD化が実現しまして、僕もそのDVDで鑑賞しましたが、
さすがにマスターテープの状態がそうとうに悪いのか、画質が悪過ぎますね。
おそらくこのレヴェルではリマスタリングしても限界があるのでしょう。とても観づらい画質です。
今後、このBlu-rayなど次世代のメディアに引き継がれていくかは微妙なところですが、
大幅なリマスタリングに関する技術革新がないと、かつての画質を復元させることは難しいのかもしれません。

本作は全米では不評で、散々酷評されたみたいですが、
ディノ・デ・ラウレンティスのプロダクションが手掛けた作品ということもってか、
全世界的にはそこそこの収益をあげたらしい。おそらく本作のようなタイプの映画にしても、
アメリカン・ニューシネマの時代がやって来ない限り、製作することができなかったタイプの映画だろう。
(おそらく本作が製作される10年前の1965年では、描くことのできなかったテーマだろう)

そういう意味では、本作の誕生自体に価値があったという見方は間違ってないのかもしれない。

(上映時間123分)

私の採点★★★★★★☆☆☆☆〜6点

監督 リチャード・フライシャー
製作 ディノ・デ・ラウレンティス
原作 カイル・オンストット
脚本 ノーマン・ウェクスラー
撮影 リチャード・H・クライン
音楽 モーリス・ジャール
出演 ジェームズ・メイソン
   スーザン・ジョージ
   ケン・ノートン
   リリアン・ヘイマン
   ペリー・キング
   ブレンダ・サイクス
   ロイ・プール
   ポール・ベネディクト
   アール・メイナード