昼下がりの情事(1957年アメリカ)

Love In The Afternoon

パリに暮らす私立探偵の娘アリアーヌが、父が依頼された仕事のドキュメント・ファイルを
盗み見しては色々な思いをはせる毎日だったが、小さな楽団で演奏しつつ、彼氏のミシェルと会う毎日に
どこか満ち足りないものを感じ、浮気調査の調査内容に心ウキウキさせながら刺激的な恋を待ちわびる日々。

そんな中で、とある浮気調査の対象であるアメリカ人実業家で大富豪のフラナガンに
何故か一目惚れしてしまい、彼が命を狙われていることを知って、その殺害を防ぐためにと
フラナガンが宿泊するリッツ・ホテルに侵入して、フラナガンを説得することから、物語が動き始めます。

53年の『ローマの休日』で世界的に大ブレイクしたオードリー・ヘップバーンが、
名匠ビリー・ワイルダーと『麗しのサブリナ』に続いてタッグを組んだ恋愛映画なのですが、
個人的には、この映画はノレなかった。シナリオ自体は悪いものではないのだろうけど、どこかノレなかったなぁ。

この映画の難点は幾つかあって、よく言われることなのだけれども・・・
まずは、フラナガンを演じたゲーリー・クーパーがやっぱり年をとり過ぎているのは、どうしても気になる。

どうやら、企画段階でフラナガン役にケーリー・グラントやユル・ブリンナーへオファーを出したらしいのですが、
ケーリー・グラントからはハッキリと「自分が演じるには、自分が年をとり過ぎている」と辞退されたらしいし、
そんなケーリー・グラントより年上で、ルックスも若々しいとは言えないゲーリー・クーパーですから、
これは映画として苦しい船出となってしまったのは否定できない。ゲーリー・クーパーがこういった、
コメディ映画の主役級にキャスティングされること自体が珍しいので、貴重と言えば貴重なのですがねぇ・・・。

確かに役柄的にヘップバーンと同じ年代の俳優というわけにはいかなかったと思うし、
ゲーリー・クーパーの仕事ぶりが悪いわけではないのだけれども、アリアーヌとのギャップが大き過ぎて、
映画の中でそのギャップを埋めることが出来ていないことが、本作最大のウィークポイントなのかもしれません。

そういう意味では、ヘップバーンがゲーリー・クーパーに対しては若過ぎたという解釈もあるかもしれませんが、
やはり当時のハリウッド女優の中でも、ファッション・リーダーとしてのオーラがスゴいという感じで、
映画の終盤に彼女が家の洗面台で髪を洗っているというだけで、彼女は“絵”になるという凄みを感じる。

たぶん、ビリー・ワイルダーも彼女をヒロインに起用できた時点で、本作の成功を確信していたのだろう。

確かにビリー・ワイルダーの仕事ぶりは、いつも調子で悪いわけではありません。
ただ、一つだけ。敢えて気になることとして指摘しておきたいので、やっぱりこの映画は長過ぎる。
悪い意味で冗長で、この内容で2時間を超えてしまうというのは、かなり上映時間が長く感じられてしまう。

これは映画の序盤からそうなのですが、シーンの流れがどことなく悪く、映画のテンポが上がらない。
これは各シーンの演出がどうのというよりも、編集段階での問題が大きいのではないかと思います。
映画全体のバランスを考えると、これは明らかに冗長な流れになってしまっていて、もっと大胆にカットしなければ。
この傾向は当時のビリー・ワイルダーの監督作品によく見られたのですが、本作は特に顕著に出ていると思う。

フラナガンがパリで雇っている(?)、4人の男性の小楽団が良いアクセントにはなっているのですが、
彼らの描写にしても、例えば無心に酒を注ぐフラナガンとカートの往来を何度もするとか、必要性が分からない。
こういったシーンが映画の序盤から散見されていて、ビリー・ワイルダーに描きたいことが多いのは分かるけど、
もっと映画全体のバランスを考えるために、客観的に全体を見渡す視点があれば、違ったのではないかと思う。

せっかく、ストーリーの基盤としては、花の都パリを舞台に展開するシンデレラ・ストーリーで
魅力あるものだと思うのですが、カップルの年齢バランスと尺の長さの弱点は、あまりに勿体ないと感じます。

そのせいか、同じ頃のヘップバーンの出演作品として見れば、
『ローマの休日』、『麗しのサブリナ』、『尼僧物語』と比較すると、ファンの人気という点では劣るかもしれません。
この辺はビリー・ワイルダーの力量からすると、もっとなんとかならなかったのか・・・と思える部分ではあります。

映画のラストも賛否両論でしょう。僕はこれはこれで”アリ”だとは思いますが、
常識的に考えると、このラストは否定的な印象を持った人も少なくはないのではないかと思います。
特にアリアーヌの父をしっかりと描いているがだけに、手放しで応援できる終わり方かと言われる、そこは微妙だ。

これも、フラナガンの描き方として軽薄な男が、心変わりしたところを描いていないことにある。
そもそもフラナガンは久しぶりとは言え、パーティーで再会したアリアーヌを全く覚えていないような男で、
アリアーヌの正体を知りたいと家に乗り込んで、彼女の尾行を私立探偵であるアリアーヌの父に依頼するという、
妙な展開になるシーンでは、「愛しているのか?」と問われて、「いや、興味があるんだ」と言っている男ですよ。

そんな男に愛娘を安心して任せられるかと言うと、それは説得力がない話しで、
やっぱりフラナガンの描き方をもっとなんとかしないと、この終わり方に違和感なく辿り着くのは不可能だったと思う。

走り去る列車で見送るアリアーヌは名残惜しいように、色々な言葉をかけ、
「全く寂しくないわ」なんて言葉と、全く反対の感情を見せ始めたことで、如何にこの別れが切ないかを強調しますが、
それを冷静に見つめながらも、沸き立つ感情を抑えていたものの、徐々に抑え切れなくなっていくフラナガン。
このラストシーンは確かにインパクトが強く、この力技が許されたのはビリー・ワイルダーくらいでしょうね。
まぁ・・・僕もこの力技というか、一気に突き抜けたものを見せるラストシーン、実は嫌いじゃないのだけれども・・・。

でも、世界中に愛人がいて、ニューヨークでは妻との離婚がスキャンダル化しているフラナガン。
しかも「興味があるんだ」と言い放つフラナガン相手に、このラストで父は安心できるわけがないですよね(笑)。

こうして、嫌いになれない部分もあるのだけれども、
僕はやっぱり、この手のラブコメとしては、もっと淀みなくスカッと楽しめる作りにして欲しいというのが本音。
さすがにここまで、疑問に思う部分ができてしまうと、ラブコメとして成立させるのが難しくなってきますねぇ。
ヘップバーンのファンション・リーダーとしてのアイコンとなるようなシーンも無いし、絶大な人気を得ることが
できなかった理由というのは、僕にはなんとなく分かる作品で、これは作り手の問題が大きかったと思う。

余談ですが、この映画のラストが不道徳なものと解釈されないようにするためにと、
アメリカで公開されるヴァージョンは、あくまでニュアンスとして伝えるためにナレーションを流すに留めたようだ。
やっぱり、製作当時からゲーリー・クーパーとヘップバーンの年の差は、プロダクションの懸念事項だったのみたい。

ビリー・ワイルダーとヘップバーンが組んだのは、本作で最後となりました。
ビリー・ワイルダーは本作の後、『お熱いのがお好き』でマリリン・モンローをヒロインで起用し、
その後はシャーリー・マクレーンを起用しました。当時はビリー・ワイルダーの監督作品でヒロインに起用されたら、
ハリウッドでもトップ女優になることが約束された道であるかのように、一つのフォーマットでしたね。

この映画のヘップバーンは抜群の可愛らしさだ。精いっぱい背伸びをして、
自分の生活とは無縁なフラナガンのようなプレーボーイと恋愛するために強がる姿が、健気で可愛い。
シャーリー・マクレーンのチャーミングさとはまた違った魅力ですが、ヘップバーンのキリッとした顔も良い。

この映画、編集を見直して、あと30分短く仕上がっていれば、もっと優れた出来だったかもしれない。
やはりラブコメとして、映画のテンポが如何に大切なものかを、あらためて実感させられた作品でした。

とは言え、そんなことはビリー・ワイルダーが一番分かっていたことでしょうから、
僕には読み取れないものがあるのかもしれません。ただ、本作を経験して『お熱いのがお好き』、
『アパートの鍵貸します』といった傑作群に進んでいくわけで、本作はそこへつながる系譜なのかもしれません。

いずれにしても、オードリー・ヘップバーンのファンは一度は観ておかなければならない作品だ。

(上映時間130分)

私の採点★★★★★☆☆☆☆☆〜5点

監督 ビリー・ワイルダー
製作 ビリー・ワイルダー
原作 クロード・アネ
脚本 ビリー・ワイルダー
   I・A・L・ダイアモンド
撮影 ウィルアム・C・メラー
音楽 フランツ・ワックスマン
出演 オードリー・ヘップバーン
   ゲーリー・クーパー
   モーリス・シュヴァリエ
   ジョン・マッキーバー
   ヴァン・ドート

1957年度全米脚本家組合賞最優秀脚本賞<ミュージカル・コメディ部門>(ビリー・ワイルダー、I・A・L・ダイアモンド) 受賞