甘い生活(1959年イタリア・フランス合作)

La Dolce Vita

ローマでゴシップ紙の新聞記者を務めるマルチェロが、
乱れた私生活に、セレブリティとのその場限りの乱痴気騒ぎ、自滅的なセレブリティの毎日を通して、
退廃的かつ刹那的な現代社会の不毛を描いた、世界中で賛否両論になったフェリーニの問題作。

これは普通の映画ではありません。
劇場公開当時から、賛否両論になっただけあって、内容的には難解かつ不可解で不条理。

映画にストーリー性だとか、整合性だとか、辻褄だとか、
そういったものを求める人には、まったく向かない作品であって、脈絡のない深い意味のない...
と言っては失礼だが、深く考えれば考えるほど答えの出ない、文字通り「不毛」を描いた作品だ。

“愛の不毛”を描く名匠と呼ばれたフェデリコ・フェリーニだけあって、
これは彼がやりたいこと、描きたいことをフルスペックで描けて、彼の主張を全くカットしなかったという感じだ。
フェリーニのスタイルを事前に分かっていれば、「こういうもんだ」と割り切れるが、知らなかったら、もう大変だ。

往年のヨーロッパ映画の難解さを凝縮させたような映画になっていて、
言い方は悪いが、これは「映画の方から、観る人を選ぶタイプの作品」だ。フェリーニの作風からは、
決して「オレの映画が理解できないヤツは、観なくていい」みたいな、傲慢な部分は感じないけれども、
フェリーニなりに映画というメディア、そして観客たちをテストしているような、そういう部分は僕には感じられる。

一見すると、主演のマルチェロ・マストロヤンニはただの女ったらしにしか見えないが(笑)、
フェリーニは彼をどうしようもない男というキャラクターの位置づけではなく、驚くほど冷静に客観的にスケッチし、
彼が当たり前のように過ごしていた退廃的な毎日から、行き場のないストレスと虚無感を強烈に抱きます。

そう、フェリーニは終始、どこか彼らを突き放したように客観的に描いていて、
マルチェロに感情移入しないように、無機質に描くことに徹しており、どこか疲労感が漂う映画になっている。

しかし、それでいてマルチェロ・マストヤンニ自身は主人公を人間臭く演じようとしていて、
今も昔も否定的に描かれがちだったパパラッチの生き様を、なんとか表現しようとするのがミスマッチに見える。
フェリーニはそのミスマッチさをも、自分の映画のカラーに変えようとしてしまう不思議なマジックを使っている。

これは映画の序盤にある、マルチェロの恋人が自殺未遂を図るシーンが象徴的で、
無事を祈るマルチェロを、カメラはどこか寒々とした構図で、フェリーニは無感情的にスケッチする。
この構図に強烈なまでの違和感...いや、居心地の悪さを感じたのは僕だけなのだろうか?

そんなマルチェロなのに、彼は上流階級との夜な夜な乱痴気騒ぎを止められず、
次から次へと魅惑的な女性との出会いを本能的に求め、結果として恋人を大切にしているとは思えない。

そんな矛盾こそが人間らしいのですが、フェリーニはそれでも冷徹にマルチェロを淡々と描いていきます。
マルチェロから見て、裕福で幸せそうな家庭を築いて、人間的にも魅力を感じていたセレブリティが
トンデモない事件を起こして強いショックと、嘆きを感じていても、フェリーニは淡々と綴っていく。
ある意味で、この映画でフェリーニが貫き通したスタイルは、とてつもなく強い“芯”があるように感じます。

当時のフェリーニがどう立ち振る舞っていたかは分かりませんが、
まるで観客のウケなど気にせず、最後の最後まで現代社会の不毛を描くことに徹したのです。
昨今の映画業界で、これだけの作家性を貫き通せる映像作家がいるのだろうか?と疑問に思えてきます。

正直言って、僕はこの映画の本質を理解できていないでしょうし、
僕自身、好きな系統の映画というわけではありません。しかし、この映画から感じる凄みが、神々しくさえ思える。
この境地に達したフェリーニは、唯一無二の映画史に名を残す映画監督として語り継がれるべきなのでしょうね。

未だに賛否両論の映画ではありますが、こういう影響力を残すだけで、本作は価値があると言えるのでしょう。

映画はローマ市内の治安の悪そうなアパート街を映したり、
夜ごと華やかなクラブでの宴、そしてトレビの泉でのキスシーンなど、次から次へと巡っていきます。
どれもこれも、ローマという歴史的大都市のロケーションの良さがしっかりアシストしているから魅力的に見えるもの。
フェリーニは観光映画を撮るつもりは毛頭無かっただろうけど、当時はこれがローマというイメージだったのだろう。
それくらいに、フェリーニの映像作家としてのスタイルは強烈であり、影響力も大きかったはずだ。

3時間近い上映時間ですので、それなりの根気と体力が必要な映画ですが(笑)、
やはりヨーロッパが好きな人は観ておくべき作品でしょう。当時のローマの風俗がよく分かります。

当時、フランス映画界では大きなニューシネマ・ムーブメントであるヌーヴェルヴァーグ≠フ
真っ最中であり、その前進的活動であったイタリア映画界のネアリスモ≠ニはフェリーニは無縁だったとは言え、
おそらく当時のフェリーニはそもそもヌーヴェルヴァーグ≠ヨ影響を与えた存在であり、
それでいながらヌーヴェルヴァーグ≠意識しながら創作活動をしていたのではないかと思えます。
それを裏付けるように(?)、本作なんかはヌーヴェルヴァーグ≠フ作品群とよく雰囲気が似ている気がします。

主演のマルチェロ・マストロヤンニは96年に他界してしまいましたが、
日本のテレビCMに出演していたせいか、日本でも『徹子の部屋』にゲスト出演したりして、
日本でも凄く人気があった記憶があります。確か亡くなったときに、『徹子の部屋』で追悼企画もありましたし。

しかし、本作を観ると、やはり強いダンディズムを感じる役者さんではありますね。

こういう映画の良さを理解してこそなのかもしれませんが、
個人的にはそこまで良さを感じ取れた作品ではなく、とは言え、作り手の志は感じ取れる作品なので、
フェリーニというネーム・バリューもあるし、チョット扱いに困るというか...なんとも感想が言いにくい映画です。

この映画は明確な結論がないまま終わりますが、果たして主人公のマルチェロは何を思ったのでしょうか?
男と女という性別で大別して語るなら、いつまで経っても男は子供のようだというところでしょうか。
映画のクライマックスの浜辺でのマルチェロの表情が、実に複雑で多様な解釈を呼ぶと中庸さだ。

フェリーニはそんなところも、全て飲み込んで、自分のカラーに染めている。

(上映時間174分)

私の採点★★★★★★☆☆☆☆〜6点

監督 フェデリコ・フェリーニ
製作 ジュゼッペ・アマト
   アンジェロ・リッツォーリ
原案 フェデリコ・フェリーニ
脚本 フェデリコ・フェリーニ
   エンニオ・フライアーノ
   トゥリオ・ピネッリ
   ブルネッロ・ロンディ
撮影 オテッロ・マルテッリ
音楽 ニーノ・ロータ
出演 マルチェロ・マストロヤンニ
   アニタ・エクバーグ
   アヌーク・エーメ
   バーバラ・スティール
   ナディア・グレイ
   ラウラ・ベッティ
   イヴォンヌ・フルノー
   マガリ・ノエル
   アラン・キュニー
   ニコ