太陽はひとりぼっち(1962年イタリア・フランス合作)

L'eclisse

名匠ミケランジェロ・アントニオーニが描く、お得意の愛の不毛を描いた難解なドラマ(笑)。

いやはや、しつこいようですが...相変わらず難解な映画ですね(笑)。

何故か、フランス映画界のスター、アラン・ドロンが隣国イタリアで出演した作品ですが、
確かに当時のアラン・ドロンは被写体として、何をやらせても“絵”になる甘いマスクだ。
映画の中盤でしつこく描かれる、ローマの証券取引所でまるで馬車馬のように働く姿や、
どこか閉塞感のあるヒロインである、ヴィットリアを口説き落とす姿も、どれをとっても“絵”になる。

僕にはミケランジェロ・アントニオーニがこの映画で何を描きたかったのか、
今一つ理解し切れていないのだけれども、僕はこの映画はスケッチの集合体だと思う。

幾つかのチャプターに分かれていて、
おおまかに言えば、夫との別れ、ケニアの話し、飛行機、証券取引所、証券マンとの恋愛といった具合に、
一見すると脈絡のないエピソードがシークエンスをなし、どこか世紀末的な結末に帰結する。

何とも言えない行き詰まり感のある感情、何をしたいのか明確ではないものの、
目の前の現実に少しずつ不満を募らせ、なかなか現実を受け入れられずにいる。

文字通り、ミケランジェロ・アントニオーニが当時、半ばライフワークのように描いていた、
愛の不毛そのものであり、当時のヨーロッパの若者たちに多くあった苦悩を描き、
その中で彼らなりに打開するための方向性を示唆する映画を撮り続けていたのかと感じます。

しかし、いつも変わらず映画の根底にあるのは、人間の本質だ。
必ずしも綺麗事では綴れないし、理屈に合わないことが多いのが人間。感情高ぶるようにエネルギッシュに
生きる人もいれば、対照的に無気力的に惰性で生きているかのような人間もいる。

そんな多様な人々が織りなすドラマだからこそ、表現できることがあるのでしょう。
本作はミケランジェロ・アントニオーニが描いた、「愛の不毛三部作」最終章で、僕も全部観たわけではありませんが、
やはり当時のヨーロッパ映画界を席巻していた、ニューシネマ・ムーブメントの影響を受けた内容ですね。
そうなだけに、やはり若者を描き、新たな感性を表現することで、「愛の不毛三部作」の締めくくりを感じさせます。

映画の中に幾つか印象的なシーンがあるのですが、
特にローマの証券取引所でのシーンで、今では懐かしいぐらいアナログな取引の様子が描かれますが、
その中で仲間の証券マンの一人が朝に亡くなったと訃報をアナウンスし、1分間の黙とうを行うシーンで、
ホントに1分間の黙とうを捧げるのですが、1分が経過した途端に再び、ガヤガヤと取引が再開するシーン。

劇中でも主人公が語っていますが、当然、日夜共に働いた証券マンの仲間が亡くなったわけですから、
感傷に浸るような一幕があってもいいような気がしますが、そこは非情に徹する証券マンの姿が印象的だ。

要は、感傷に浸っている場合じゃないというか、「それどころではない」ということで、
きっと黙とうの1分間の間、大多数の証券マンが株式取引のことしか考えていないのだろう。
これはこれで、人間の本質なのかもしれない。言えば、証券マンの性(さが)なのかもしれない。

もう一つ、通りがかりの酔っ払いが主人公の車を盗んで、暴走行為をして、
結果として川にダイブする単独事故を起こす。まったく自業自得で、他人を巻き込まなくて良かったのだが、
川から引き揚げられた自分の車に遺体があるというのに、それはどこ吹く風という態度だ。
これは現代の感覚で言えば当然かもしれないが、死を悼む気持ちなどまったく無いに等しいのだ。
他人の車を盗み、飲酒運転の暴走行為なので同情の余地はないが、これはこれで人間の本質なのかもしれない。

ミケランジェロ・アントニオーニの監督作品の象徴とも言える女優だった、
ヴィットリアを演じたモニカ・ヴィッティが、放つ気ダル〜いオーラが、なんとも言えない異彩を放つ。
おそらく彼女だからこそ、正しく「愛の不毛」を表現するのに、ピッタリな映画になったのでしょう。

本作はカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞することになります。
おそらく当時の映画評論家の間でも賛否両論であったのでしょう。60年に発表した『情事』に続いて、
2回目の審査員特別賞ということで、如何に当時、映画界に於いてセンセーショナルな存在だったか物語ります。

ミケランジェロ・アントニオーニは、66年にサイケデリックな『欲望』を撮ったことでも知られ、
本作の冒頭に使われるイタリアのミーナの主題歌を聞いても感じるのですが、
かなり当時としては前衛的というか、激しい攻撃的なサウンドのロックンロールに対して理解があったのですね。
当時の映画界では、こういった音楽を主題歌として使うということは、そう多くはなかったはずです。

そう思えば、やはり当時のミケランジェロ・アントニオーニは若者たちの苦悩を描くことで、
当時のヨーロッパ社会に蔓延る、大衆の不安であったり、何とも言えない行き場のない感情を表現したかったのでしょう。

そういう意味では、やはりフランス映画界のスターであった、
アラン・ドロンというのはピッタリな役者で、ミケランジェロ・アントニオーニの世界観にも見事にマッチする。
おそらくアラン・ドロンにとっては、本作への出演は大きな挑戦であったのでしょうけど、結果的には成功でしたね。

が、やはり僕にはこの映画の真髄をしっかりと理解するのは青過ぎたのかしれない。
僕には唐突の訪れるラストも、作り手の意図が上手く汲み取れず、あまりに難解に感じられたとしか言えません。

なんでもつながりを求めてしまうと、この映画の良さには触れられないのかもしれません。
特に意味を感じ取ろうとするよりも、キャストたちが感じている、何とも言えない感覚を共有し、
行き場のない不安感、そして強い倦怠感を感じ、先行きが不安なフィーリングを感じるだけの映画なのかもしれません。

あまり意味を追及してはダメなタイプの映画です。
ヴィットリアからの電話と薄々感づきながらも、あまりに喋らないものだから、
主人公の証券マンが「誰だ? 誰だ!? 誰だ!」と怒鳴ってしまうシーンにしても、深い意味はありません。
クライマックスの米ソ冷戦の時代を想起させる、クライマックスの世紀末感にしても、政治的なメッセージとも
解釈できなくはありませんが、おそらくミケランジェロ・アントニオーニにそんな意図は無いでしょう。

何も考えることなく、ただボーッと没頭する分には、最適な映画なのかもしれません。

(上映時間125分)

私の採点★★★★★☆☆☆☆☆〜5点

監督 ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本 ミケランジェロ・アントニオーニ
   トニーノ・グエッラ
   エリオ・バルトリーニ
撮影 ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽 ジョヴァンニ・フスコ
出演 アラン・ドロン
   モニカ・ヴィッティ
   フランシスコ・ラバル
   リラ・ブリニョーネ

1962年度カンヌ国際映画祭審査員特別賞 受賞