蜘蛛巣城(1957年日本)

黒澤がウィリアム・シェイクスピア原作の『マクベス』をモチーフに、
日本の時代劇に置き換えて、奇妙な老婆の予言による幻想に悩まされる戦国武将を描いた異色なドラマ。

黒澤は「一度はシェイクスピアの原作を映画化してみたかった」と言っていて、
本作の企画自体、当時の黒澤にとっては大きなチャレンジであったのでしょう。全盛期の黒澤の監督作品ですが、
本作は『羅生門』を更に一歩前に進めたような感じで、かなり前衛的な時代劇と言っていいと思いますね。

正直言って、僕は映画の終盤まで結構、退屈してました(笑)。
いや、恥ずかしながら...「これは黒澤の監督作品でも、“ハズレ”かな」とさえ、思っていました。
あんまり前情報を多く入れずに観てたので、こういうコンセプトだという理解も薄かったと言えば、それもそうです。

しかし、本作のハイライトとも言える、クライマックスの凄まじいまで矢が飛び交って、
主人公がまるで“蜘蛛の巣”に捕らえられ、動けなくなっていくかのような構図に完全に心を奪われました(笑)。

このクライマックスの凄まじいまでの恐怖感だけで、僕は本作の優れたところを見たと感じましたね。
これは50年代の日本映画界でやってのけた黒澤は、あらためて孤高の存在と言って良かったのだと思います。
欲を言えば、録音状態が芳しくないせいもあってか、台詞がハッキリとよく聞こえず、映画の前半から中盤にかけて、
少々ステレオタイプな劇が延々と続くという印象があって、ここはもうチョット何とかして欲しかったけれども、
このインパクト絶大なラストシーンは、ホントに凄まじい。チャンバラのイメージが先行する時代劇のフォーマットに
心理劇の要素を持ち込み、実に巧みな構成で一気にラストの修羅場になだれ込んで、観客を魅了している。

このラストシーンの撮影は、鎧をまとって演じた三船 敏郎もかなり恐怖心を感じていたそうで、
撮影が終了してから、こんな危険な撮影を敢行した黒澤に怒って、家に乗り込みに行ったなんてエピソードもある。

このシーンは主人公の最期を描いたシーンでもあるわけで、当時の出来ることを考えると、
矢が主人公の喉に刺さるシーンなんて、思わず「どうやって撮影したんだろ?」と疑問に思えてしまう生々しさだ。
そういう意味でも、本作は単にシェイクスピアの原作を日本の時代劇に適用させたというだけではなく、
日本映画史としても映像表現として、実に革新的な要素を持った作品だと思うし、もっと人気があっても良いと思う。

正直、僕は今まで本作を観てこなかったことに後悔すら感じた。ただ、終盤までは退屈だったけど・・・(笑)。

だからあ、僕は手放しには本作を称賛はしないし、よほどの映画好きにしか勧められないんだけど、
それでも黒澤 明の映画という枠組みの中では、本作は決して外すことができない作品なのだろうと思いましたね。
それくらい、後年の彼の監督作品への影響も大きかったのではないでだろうか。それくらい、並みの映画ではない。

主演の三船 敏郎も良いけど、本作はそれ以上に彼の妻を演じた山田 五十鈴が素晴らしい。
彼女の熱演には黒澤も喜んでいたらしいのですが、やはり手が血で汚れたと錯乱状態になる芝居が忘れ難い。
それまでは冷静を装って、主人公が錯乱状態になっても場を落ち着かせることに注力していたのですが、
次第に彼女もその雰囲気に飲まれていって、完全に精神を病んでしまう。この変化が申し分ないくらい絶妙です。

魔性すら感じさせる冷静さと、感情を解き放つように取り乱す様子を見事に対比させていて、
映画の中でスパイスのような役割を担っており、黒澤の狙い通りに機能してくれたことがよく分かりますね。

この頃から、明らかに黒澤は世界にアピールする日本映画を目指していることが明確になっていると感じる。
そもそもシェイクスピア原作を映画界したいという時点で、そういった野心を反映しているとも解釈できるが、
それぞれのシーンの撮り方の構図や、ラストシーンに象徴されるように観客をビックリさせるような演出など、
どこか非凡で鋭敏な感覚が随所に吹き込まれており、当時の他の映画人とは一線を画すクオリティだったと思う。

本作も世界の映画祭に出品していて、国際的に評価された作品になったことから、
黒澤の世界的な認知度は圧倒的に高くになりました。本作が黒澤のベストだとは思わないけれども、
本作で黒澤が表現していた内容、表現方法については当時の日本映画界の中ではダントツの存在だったと思う。

結局、本作もややもするとオカルト時代劇になってしまうところだったと思うのですが、
黒澤の演出が絶妙な塩梅で上手い具合に配分されていて、ギリギリのところで安っぽい映画にはならなかった。
それはやっぱり、あのクライマックスがあったからだろう。こういう制御ができるのも、黒澤が巨匠たる所以だろう。

まぁ、本作の撮影は大変だったことでしょうね。なんせ、富士山の2合目にセットを組んだらしいので。
確かに城のロケーションは抜群という感じで、1957年という時代を考慮すると、撮影はかなり大変だったでしょう。
さすがにロケ地への往復も大変だったようで主演の三船 敏郎は、自ら運転するジープで移動していたらしい。
室内のシーンは東京のスタジオで撮影したらしく、やはり黒澤はタイトルにもなる“城”のイメージを重視したのでしょう。

それから、当時の映画撮影の技術から言えば、もう一つ不思議なシーンがあって、
謎の予言をする老婆が巨大な籠の中に居て、主人公らが籠の中の老婆を追うと、老婆が籠から出ている、
というシーンで一連のシーンをワンカットで表現しているのですが、思わず「どうやって撮ったのだろう?」と思える。
おそらく撮影スタッフが多くカメラの後ろ側で籠を無くすなど、マンパワーでクリアしたのでしょう。これは大変な撮影だ。

しかし、こうして観る者をさり気なく驚かせたり、不思議に思わせるあたりが黒澤の挑戦意識の高さでもある。
既に世界に目を向けて創作活動をしていた黒澤であり、本作も見事にヴェネツィア国際映画祭で高く評価されました。
こういう挑戦意識こそが、日本映画界を代表するハングリーなディレクターとして、高く評価されていたのだろう。

実際、海外の映画評論家でも本作のことを未だ高く評価する意見は多くあり、
シェイクスピア原作の映画化に挑戦した映像作家は数多くいるものの、その中でも本作は有数の出来との評価もある。

それはシェイクスピア原作ということを尊重しながらも、自らのオリジナリティを押し出し、
且つ日本映画の専売特許とも言える日本の戦国時代を描いた時代劇の本来的な良さをキチッと残したことにある。
それが当時の世界の評論家たちにとっても、逆に新鮮な感覚を持てたのだろうし、そんなことをやっていたのは、
やはり当時の日本映画界では黒澤 明くらいだったからだろう。そう思わせるくらい、本作にはカリスマ性を感じます。

ただ、そうであるがゆえに、僕はあらためて過去の黒澤 明の監督作品の多くで、
あらためて台詞を聞き取り易く、なんとか仕立て直して欲しいというのが本音だ。それは本作が最も強く感じた。
おそらく、キャストたちの台詞がもっとハッキリと聞き分けられたら、映画の前半からしっかりと楽しめたと思う。

一度、最後まで観通さないと映画の全容がつかめず、最後のアクションまで辿り着けないのがあまりに勿体ない。
映画の古さということとは別に、この録音状態の悪さで内容がよく理解できず、ギブアップした人も少なくないだろう。
正直言って、僕は本作が特に酷いなぁと感じた。作品のオリジナリティは分かるが、これはあまりに勿体ないことだ。

黒澤が本作で成し遂げたものは素晴らしいとは思うけど、この録音だけはどうしても気になってしまう。
本作以前の他の日本映画と比較しても、更に本作は良くない状態だと思えてならない。どうしてこうなったのだろう?

おそらく、黒澤は85年の『乱』でシェイクスピア原作を映画化するという点では、
最大限にやり切ったというところなのではないかと思うのですが、『乱』も素晴らしい作品ではあるけれども、
僕は文字通り、半狂乱を映画の中で表現し切ったという点で、本作の方が優れた出来なのではないかと思った。

その半狂乱とは、主人公の妻役の山田 五十鈴の突き抜けた感情表現と、ラストの“蜘蛛の巣”を作る弓矢だ。
正しく、これらはカオスと呼ぶに相応しい状態であり、黒澤が映画の中で表現したかった迫真の感覚とは、これだろう。

それは人間が作り出し、人間が陥る状態である。この感覚は全く理屈では説明できないだろう。
そのときの人間のリアクションこそ、黒澤が描きたかったことだろうし、その空気感こそが“リアル”なのだろう。
こういう感覚は『羅生門』でも『七人の侍』でも描くことはできていない。それくらい、僕は本作に衝撃を受けました。

本作の後に黒澤は『隠し砦の三悪人』を撮ることになるわけで、より作家性が成熟していくことになります。
でも、そうして映画監督として羽ばたく“準備”は本作の時点でしっかりと完成していたわけなんですね。
それくらいに、本作は黒澤にとって確信を得た作品だったでしょう。あとは、音声さえ良ければなぁ・・・(苦笑)。

(上映時間110分)

私の採点★★★★★★★★★☆〜9点

監督 黒澤 明
製作 本木 荘二郎
   黒澤 明
原作 ウィリアム・シェイクスピア
脚本 小国 英雄
   橋本 忍
   菊島 隆三
   黒澤 明
撮影 中井 朝一
美術 村木 与四郎
音楽 佐藤 勝
出演 三船 敏郎
   山田 五十鈴
   志村 喬
   久保 明
   太刀川 洋一
   千秋 実
   佐々木 孝丸
   清水 元