大いなる勇者(1972年アメリカ)

Jeremiah Johnson

これは如何にもアメリカン・ニューシネマ上がりの映画監督という感じバリバリだった頃の
シドニー・ポラックが撮った、西部開拓時代に都会と訣別し、山に分け入った伝説の男ジョンソンを描いた伝記映画。

決して万人ウケするタイプの映画ではありませんが、これは実に強い芯があって、
一種独特な世界観がある、唯一無二の作品だ。こういう映画を撮っていたのだから、シドニー・ポラックは侮れない。
ホントはこういう仕事が出来るディレクターだったのです。80年代に入ってからの彼の監督作ときたら・・・でしたが。

そりゃ、映画の序盤に極寒の冬の日にジョンソンが魚をゲットするためにと、
夢中になって川に入っていき、魚を手で捕まえようとして先住民族にマークされるシーンがある。
普通に考えれば、こんな寒そうな日に冷たい水に浸かるなんて自殺行為としか思えず、平然としていられるわけがない。
大自然の厳しさを描いた映画でもあるのですが、少しトンチンカンな描写がないわけでもない。この辺は賛否あるだろう。

細部に亘ると、少々大雑把な演出が横行するのもシドニー・ポラックらしいのですが、
こういったトンチンカンさを上回って十分なくらい、この映画にはある種の強いカタルシスがあると感じる。
そう、これは感じる映画だ。理屈だけでは決して語り切れないし、正直言って、理路整然とした映画でもない。

伝記映画だからという開き直りがあるのかもしれないが、これは一種のファンタジーでもあると思う。

しかし、本作がニューシネマ・テイストに溢れる所以は、所々にシニカルさを秘めているところでもある。
そもそも文明的な生活と訣別し、単身で山に入っていくものの、女性という煩悩を捨てられない人間臭さがある。
そして、人間同士のイザコザにも懲り懲りといった様子で、大自然に囲まれた生活を送ればそのようなことはないと、
彼はそう思っていたのだろうが、いざ蓋を開けてみると、言葉の通じない先住民族との命を賭けた殺し合いである。

このように、山に入る前にジョンソンが思い描いていた理想と、現実の大きなギャップは皮肉である。
オマケに隔絶された世界で長く暮らしているためか、情報が一切入ってこない。人々はジョンソンを山の主扱いする。
おそらく、ジョンソンもそんな神格化されたくて、単身で山に分け入ったわけではないでしょう。彼自身も未熟で、
ベア・クロウという熊をも恐れぬ大ベテランの山男に、サバイバル生活の極意を伝授してもらう立場だったのだから。

人間関係の難しさに飽き飽きし、自給自足の不便なその日暮らしを選択したジョンソンだっただけに、
そもそもこのような伝記映画のモデルになること自体、彼の本意ではなかったのかもしれない。

山の生活に慣れた頃、ジョンソンは先住民族が襲ったとされる、白人一家が受けた残虐な凶行現場を目にする。
あまりに凄惨で、精神を病んだ母親を見かねたジョンソンは、ショックを受けて言葉を発さなくなった息子を引き取り、
新たな生活をスタートさせます。ジョンソンも戦争が嫌だっただろうし、カナダを目指していたのも、闘いを避けるため
だったのかもしれない。そんな思いの中、人間が人間を襲うという蛮行にジョンソンは少なからずともショックを受ける。

しかし、ジョンソンも生きていかなければならない。
相手が先住民族であっても、命を狙ってくる敵を、殺害するのもやむなしでジョンソンは必死の抵抗を見せます。
腕っぷしも強くなり、何故か好意的な先住民族の酋長の娘と結婚することになったジョンソンなんて、実にユニークだ。

新たな生活を手にしたジョンソンに束の間の幸せな時間が訪れるようになりますが、
皮肉にもジョンソンの生活は、再び人間の手によって脅かされることになります。まったく彼の本意ではないが、
まるで運命であったかのように、惨劇に見舞われるジョンソンは復讐を果たすことを固く決意するのです。

本作を通してシドニー・ポラックは、そんなジョンソンの生きざまを見事に活写しており、
壮大なスケールのロケーションにも恵まれて、当時としてもなかなか無いタイプの映画に仕上げることができました。

個人的には2時間満たないくらいの上映時間なので、何故に中盤に休憩があるのか、
その真意が理解できませんでしたが、それくらい重厚感のある映画にしたかったのかもしれませんね。
ひょっとしたら、当初は長編映画になる予定だったのかもしれませんが、何故か映画の後半に90秒ほどの休憩がある。

この構成が如何にも伝記映画っぽい雰囲気を作るのですが、それならばもう少しジョンソンの苦難を描いて、
2時間30分くらいのヴォリュームにしても良かったかもしれないですね。この原作なら、それが出来たでしょう。
(ただ、それはそれで「長過ぎる!」と言ってしまう自分の天邪鬼さが、なんとも心苦しいのだが・・・)

ちなみに脚本にジョン・ミリアスがクレジットされているのが、なんとも興味深い。
ハリウッドきってのタカ派な人で知られる映画人ですけど、この頃はまだ政治色を表にはあまり出していない。
本作の後に73年の『デリンジャー』で監督デビューを果たしますが、アメリカン・ニューシネマの潮流の中で
乾いたアクションと反共主義的なメッセージを映画の中に押し込める人で、次第に政治色が強くなっていきました。

見方によっては、本作も望んでいないものの好戦的な先住民族がいるという、
外的な要因で戦わざるをえないという、自警団の論理というか、政治的に右傾化した部分はあるかもしれませんが、
そこはシドニー・ポラックが上手く政治色が映画の中に、出さないように配慮したアプローチをしているように見える。

ジョンソンだって、文明社会に嫌気がさしたとは言え、決して人間不信になったわけではない。
それゆえ人々とは積極的に関わって生きていきたい、孤独を楽しむタイプの人間ではなかったようだ。
ただ、結果的には自給自足で「頼れるのは己のみ」という標語を地で行くように、生きていくしか選択肢が無い。
ある意味では究極の自己責任を論理展開しているようにも見え、この辺はジョン・ミリアスっぽいかもしれません。

シドニー・ポラックは敢えて、華美に脚色したりしなかったし、舞台劇のように演技合戦を求めたわけでもない。
そのせいか、映画がやや一本調子な傾向にあるが、この素朴さが本作の大きな魅力でもあると言っていい。

ただ、先住民族との関係については、古くから社会問題化しているアメリカに於いて、
本作の好戦的な先住民族の残虐性を表現した描写はどう評価されていたのかは気になるところですが・・・。

実際にロッキー山脈に単身で分け入って自給自足で暮らしていくのは、そうとうに勇気のいることだろう。
劇中でも描かれていますが、熊に襲われたり、冬の過酷な気候に屈し凍死するといったことは数多くあったでしょう。
この映画、この辺は少々甘いのですが、防寒技術が優れた時代ではないだけに、正に命を懸けた日々でしょう。

個人的には、この映画の弱点はこの環境の過酷さを表現する点だと思う。
もっと現実は過酷だろうし、細かなことで困ることが多かったはず。全てが現実を映すことはできないにしろ、
人間同士の軋轢の激しさもいいのですが、この映画の場合はもっと自然環境の厳しさを強調して描いても良かった。
と言うか、もっと描くべき事象があったと思うのですが、例えば砂漠に埋められたデル・ギューのようなユニークな
キャラクターを敢えて登場させて、ジョンソンの行く手を阻む自然の厳しさには、敢えて深掘りしなかった感じだ。

猛烈な寒波、命を一気に飲み込む雪崩など、冬山の厳しさは言葉で表現し切れるものではないだろう。
原作がどうなっているかは読んでいないので分かりませんが、本作の中ではこれらについてはほぼ描かれていません。

ですから、自然派な方々からは「ロッキーなんて大自然はこんなもんじゃねーぞ」と批判的な声は出るかもしれません。
僕の中では自然の厳しさを深掘りして描いてさえいれば、大傑作になっていたはずと思えてならないのですよね。
そういう意味では、とても勿体ない作品です。実に良いところまで頑張った、力のこもった映画であるのに・・・。

先住民族の酋長の娘と結婚したジョンソンも、「女が恋しい」なんて言ってたクセに、
いざ結婚すると最初は言葉も通じず文化も違うのでギクシャクしていたけど、次第に分かり合えるところまでいって、
ジョンソンが立派に蓄えたヒゲを剃ってきて、妻が誰なのか分からず戸惑うなんて、些細な日常の描写も凄く良い。

そうなだけにシドニー・ポラックらしいと言えば、否定できないが、チョットしたボタンのかけ違い部分が勿体ない。
でもね、僕は本作のことを忘れ去られて欲しくはない。いつまでも語り継ぐべき、貴重な一作だと思います。

(上映時間114分)

私の採点★★★★★★★★★☆〜9点

監督 シドニー・ポラック
製作 ジョー・ワイザン
原作 レイモンド・ソープ
   ロバート・バンカー
   バディス・フィッシャー
脚本 エドワード・アンハルト
   ジョン・ミリアス
撮影 デューク・キャラハン
音楽 ジョー・ルビンスタイン
   ティム・マッキンタイア
出演 ロバート・レッドフォード
   ウィル・ギア
   ステファン・ギラシュ
   アリン・アン・マクレリー
   ポール・ベネディクト