I am Sam アイ・アム・サム(2001年アメリカ)

I Am Sam

これは確かに考えさせられる作品だ。

知能は7歳児と同程度とされるハンディキャップを抱えるサムは、
スターバックス・コーヒーでアルバイトをし、サムと同じようにハンディキャップを抱える人々と楽しい日々を送る中、
(映画の中では詳しくは語られていないが...)ホームレスの女性との間に子供ができ、娘のルーシーを一人で
育てなければならない環境になり、次第に児童福祉局からも目をつけられ、裁判に出廷しなければならなくなります。

偶然知った、高名な弁護士事務所に突撃し、ひょんなことから女性弁護士のリタが
社会奉仕の一環として無料で弁護士を務めることになりますが、児童福祉局からの厳しい追及もあり、
次第にサムは法廷に立ち続けることが難しくなり、ルーシーを取り戻す気概を失っていきます・・・。

この映画は娘のルーシー役を演じたダコタ・ファニングの子役離れした芝居が話題となりましたが、
まぁ・・・主演のショーン・ペンにしても、リタを演じたミシェル・ファイファーにしても素晴らしい仕事ぶりだと思う。

おりしも、本作にリンクするトピックスですが、先日ニュースになったことがありました。

北海道の障碍者が集団で生活する福祉施設で、施設が入所者の希望に応じて不妊処置を斡旋していたという件だ。
これは旧・優生保護法のこともあり、とてもデリケートな問題と思うし、色々な意見があると思っています。

自分も、ずっとこの問題について考えてきたわけではありませんが、
いろんな見地から複合的な視点を持って考え、答えを出さなければならない問題でしょうから、
何が正しく何が間違った答え、とは言い切れない問題のように思っています。勿論、個人的な意見はありますが・・・。

北海道の障碍者施設の問題の要点としては、幾つかあると思います。
当然、障碍者同士のカップルだからという理由で、不妊処置を行うというのは倫理的に問題があるでしょう。
障碍者同士のカップルだから、その子供が障碍を負うとは限りません。施設側の言い分としては、
子供を設け、子育てができる能力があるということは、施設のケアの対象外になってくるというもので、
これはこれで自活能力に乏しい部分があるので、施設のケアの対象となるわけであって、子育てをしながら
通常の社会生活を送ることができるのであれば、施設のケアの対象外となるという言い分は通っている。

しかも、そのような環境で誕生した子供が、仮に障碍を抱えていないとしたら、
それは施設で育てるべき対象であるのか?という疑問は、現代社会に対する警鐘でもあると思う。

この映画でも語られたように、もし養育能力がない親であった場合、
子供にとっては不幸な境遇を作ってしまうかもしれない。どのような親であっても、子供にとっては親は親。
そのようなあらゆる観点の中から、施設側が“提案”したこと自体は僕は全否定はできない。

当人と家族が納得していて、施設側が強制するような環境ではないのであれば、
憲法の問題を含めて、社会全体で考えるべき、一つの社会的テーマなのではないかと思っています。

一方で、この映画で描かれたサムのように、元々自活していて周囲の助けを借りることができる環境で
実際に親が子供に無限の愛を注ぎ込んでいて、娘のルーシーもサムという父親を求めている状況で
サムの親権を認めないというのは、児童福祉局の懸念に一理はあるものの、あまりに不寛容な社会という気もする。

僕は子育ての全てを親がやらなければならない、とまでは思っていません。
サムのような親の子育てを社会的にバックアップすることができる地域社会を形成できる世の中になって、
親も周囲に助けを求めやすい社会が形成できれば、より子育てし易い社会になるのではないかと思っています。
本作で描かれたようなダイアン・ウィースト演じるアニーのような存在は、きっと大きな助けとなるでしょう。

世の中、なかなか完璧な人間はいません。アニーはアニーで、長年引きこもりであることを
裁判の中で指摘されたりしますが、理想論を言えば、お互いの不完全さを、補っていける社会であればいいと思います。

サムの立場、ルーシーの立場、アニーの立場、リタの立場、そして児童福祉局の立場、
それぞれに言い分があるし、どうすることが幸せになるのか、社会全体で考えるべき問題ですが、
言葉は悪いですが、この問題は全員が納得のいく、100点満点の答えなど存在しないのではないかと思います。

この映画の視点としては、児童福祉局の尋問を詰問として描くなど、
少々偏った視点のように感じる部分もあるにはあるのですが、それでも多様な視点に触れてはいる。
その点では優れているように感じたし、サムの苦悩を描きながらも、リタの家庭環境も良いスパイスになっている。

結果的にはサムとルーシーの親子愛を強調する内容にはなっているのですが、
そこに裁判の中で進められる里親の手続きの中で登場する、ローラ・ダーン演じるランディの描き方も良い。
得てして対立構造として描かれがちで、映画のハイライトにするべく登場させるキャラクターという感じですが、
決して対立構造を煽るための存在に使われるキャラクターではなく、極めて建設的な存在として描いている。
これはサムにしても、ランディにしても、こうした関係の中でルーシーと関わることの難しさを感じさせますね。

そんな中で映画のラストで描かれることは、正に地域から支えられるサムとルーシーという感じがする。
そりゃ現実にはそう上手くいく話しではないだろうし、映画で描かれていないような困難や障壁もあるでしょう。
しかし、それを全部飲み込んでも、本作で描かれたことから、考えさせられることって、スゴく多いのではないかと思う。

監督は94年に『コリーナ、コリーナ』を撮ったジェシー・ネルソンで、実に野心的な作品だと思う。
ダコタ・ファニングという強烈な存在の子役を引っ張り出したことも大きな功績ではありましたが、
障碍者が親としての人生を歩むということに対する、鋭い問題提起を行うという意味で、本作は価値があった。
そしてクライマックスでは、単に裁判での勝ち負けにこだわるということではなく、親子の現時点での幸せということを
追求したラストシーンにしたことは正解だったと思うし、実に良い収束のさせ方をとれた作品だと思います。

劇場公開当時から話題になっていましたが、スターバックスとのタイアップなのか、
映画の冒頭から随分とスターバックスでのアルバイトのシーンが登場します。映画の終盤になると、ピザハット。
日本でもお馴染みの両チェーンですが、障碍者雇用に積極的な企業として描かれることを希望していたのでしょう。

この辺はスポンサー企業の宣伝が、映画の中身にまで持ち込まれたようで、個人的には嫌だ(笑)。
どうせ登場させるにしても、こんなに目立つところではなく、映画の本筋に絡まないところでやって欲しい。
(まぁ・・・00年の『キャスト・アウェイ』なんかでも、似たようなところはありましたけどね。。。)

劇場公開当時から、偽善的な内容であるように感じるなど賛否両論はありましたが、
僕にはこの映画の作り手が、どちらが正しいかを推すということに主眼があったとは、あまり感じませんでした。

勿論、サムとルーシーの親子愛がメインにはなるので、彼らの幸せを表現はするのだけれども、
サムの親としての能力を疑問視する向きを、全否定している作品だとは思いません。
スターバックスでもようやっと得たコーヒー作りの仕事の初日の描写を観ていればそれは明らかで、
結果的に周囲の信頼を失ったのか、ピザハットで働くことになったわけで、これは現実の厳しさに他ならない。

現実は、そう甘くはないということを、さり気なく描いていることを見るに、
この映画の作り手も、サムは周囲の助けが必要な存在であることを、否定はしていないと思います。
そう思って観ると、色々な問題提起をしながらも、それらの答えに執着せずに上手く収束させたなと感心しました。

どうでもいいですが、ミシェル・ファイファー演じる弁護士のリタがテーブルのお菓子を蹴り上げるシーンが
印象には残りますが、彼女は彼女でアンガーマネジメントが必要ですね。あれは半端ない短気ですわ・・・(苦笑)。

(上映時間132分)

私の採点★★★★★★★★★☆〜9点

監督 ジェシー・ネルソン
製作 マーシャル・ハースコウィッツ
   ジェシー・ネルソン
   リチャード・ソロモン
   エドワード・ズウィック
脚本 クリスティン・ジョンソン
   ジェシー・ネルソン
撮影 エリオット・デービス
音楽 ジョン・パウエル
出演 ショーン・ペン
   ミシェル・ファイファー
   ダコタ・ファニング
   ダイアン・ウィースト
   ロレッタ・ディヴァイン
   リチャード・シフ
   ローラ・ダーン
   ブラッド・アラン・シルバーマン
   ジョセフ・ローゼンバーグ
   スタンリー・デサンティス
   メアリー・スティーンバーゲン
   ダグ・ハッチンソン

2001年度アカデミー主演男優賞(ショーン・ペン) ノミネート