ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ(1998年イギリス)

Hilary And Jackie

実在の天才チェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレの42年の生涯を
彼女の妹ヒラリーが綴った原作を映画化したものですが、本作はジャクリーヌと一緒に仕事した音楽仲間や
ヒラリーの娘らが、ジャクリーヌの名誉を傷つける内容であると主張し公開差し止めを求められることになりました。

とは言え、映画はそこそこ高く評価され、特にジャクリーヌを演じたエミリー・ワトソンも高く評価されました。

物語的なところを言うと、これが事実であるかどうかはともかくとして、
幼少の頃からチェリスト、フルート奏者と、それぞれの才能を評価されながらも姉妹で才能を競い合い、
方や天才チェリストとして才能が開花し、世界的な活躍をすることになる妹のジャクリーヌに対し、
躍進する妹をよそに、次第に音楽から離れ、夫と子供で郊外の住宅に暮らす普通の専業主婦になった姉のヒラリー。

そんな二人の40年以上にも及ぶ姉妹関係で、幼い頃から強い絆で結ばれていたわけですから、
映画で表現し切れない領域もあるだろうし、赤の他人には理解し難い部分もある。

さすがに僕の中でも、結婚生活が上手くいかず、普通の生活をする姉の家に転がり込み、
精神的に荒んで「愛が欲しいのよ!」と懇願するジャクリーヌを見て、哀れんだヒラリーが自分の夫に
ジャクリーヌと一夜を共にするようお願いするなんてエピソードは、自分の感覚を遥か遠く超越したものだ。
この辺は事実と異なると指摘されているようですが、あくまで映画の中の話しとして捉えても、
反芻するのが難しい部分で、この辺は危うく映画全体をブチ壊してしまいかねないアブノーマルな部分だ。

この点を除けば、映画は良く出来ていると思います。長編作品ではありませんが、見応えもある映画です。
ジャクリーヌの晩年は多発性硬化症との闘病で、映画の終盤はその闘病の過酷さにも触れています。
そして、姉妹のドラマとして見ても、ヒラリーとジャクリーヌ、それぞれの立場から20代の若き日から、
40代を迎える頃までを、ジックリと描いているところが特長で、派手さは無いが、落ち着いた映画で優れている。

一見すると、著名な音楽家ジャクリーヌ・デュ・プレが邦題にもなっているので、
ジャクリーヌが主人公の映画かと思えるのですが、見方によるかもしれませんが、これはどちらかと言えば、
姉のヒラリーがメインとなった作品ですね。だからこそ劇場公開前に、その内容が波紋を呼んだのでしょう。

幼少期は姉のヒラリーが先にフルート奏者としての能力を認められて、
コンテストなどで優勝したりして、母親も無神経にジャクリーヌに対して、「ヒラリーを見習いなさい!」と言いますが、
向上心に燃えたジャクリーヌがアッという間に躍進し、チェリストとしてあらゆる場面で評価されることになり、
逆に今度はヒラリーが称賛されるジャクリーヌを前に、劣等感に苛まれ、家族の中で孤立感を持っていきます。

スターダムを駆け上がるジャクリーヌに対して、次第に音楽が上手くいかなくなったヒラリーは、
キーファーと出会って熱烈に求婚され、成功するジャクリーヌへの劣等感を持ちながらも、
普通の家庭の専業主婦となります。すると、今度は精神的に上手くいかなくなったジャクリーヌが
普通の生活を過ごすヒラリーに嫉妬するかのように振る舞い、姉妹の精神的上下関係が目まぐるしく変化します。

変わらないのは、何故か常にライバル視しながら、他の姉妹よりも強い絆で結ばれているという、
あまりに複雑な姉妹関係で、お互いに嫉妬すれば、ヒラリーは内向的に悩み、ジャクリーヌは露骨にヒラリーの
持っているものを奪い取ろうとする意思を隠しません。なんか、いろいろと複雑なのですが、これが姉妹の性(さが)。
この映画はそういった姉妹の表裏一体の関係性を、実に巧みに描いており、繊細な部分も上手く描けている。

しかし、気になることが1点だけあって、それはこれだけの物語をジックリ描いたのに、
僕はこの映画の結末から、何か強く心が揺さぶられることがあったかと聞かれると、それは疑問だということ。
所々、作り手も感情的に描いている箇所はあるにはあるのですが、どれも今一つ押し切れない感じだ。

あくまで姉妹のパーソナルな感情のぶつかい合いが主題の映画なんで、
もっと揺さぶるものがあっても良いと思うのですが、ラストのヒラリーの車の中の反応だけでは、どこか物足りない。
もっと深い、深い、他人には分からない深遠なるテーマ性があったはずなのですが、押し切れないのですよね。

前述したような、姉が妹の精神崩壊をなんとかするためにと、
自分の夫キーファーに、ジャクリーヌと一夜を共にするようにお願いするなど、通常では受け入れがたい感覚だが、
少なくともこの時点では、ヒラリーとジャクリーヌに対する絆とは、屈折しながらも、それだけの強さだったのでしょう。
しかし、当然のようにキーファーとヒラリーが楽しそうに過ごしているのを見ていると、次第にヒラリーは不安になります。

まるで、ジャクリーヌにキーファーを奪われたみたいな感覚でしょうけど、
この映画で描かれる限り、性生活については開放的だったジャクリーヌからすると、
キーファーという男性をヒラリーと“共有”しているぐらいの感覚だったのかもしれません。そこは大きな差があると思う。
ヒラリーの不安は当然のものであり、そうなることが分かってキーファーにお願いしたのではなかったのかと、
言いたくもなるのですが、それでもヒラリーがジャクリーヌを再生したいという気持ちが強かったと考えるしかない。

少々、不可解な部分もあるにはあるのですが、姉妹の複雑な感情の絡み合いとしては面白い。

やはり幼い頃から比較され続けて、無意識的な競争に晒され続けている姉妹となると、
その弊害というのは、成長してから顕在化しやすい印象がありますが、本作も正にそのようなことを描いています。
親もそこまで考えていたわけではないでしょうが、幼い頃から成功するとそれを維持するのもプレッシャーでしょうしね。
だからこそ、ジャクリーヌもその反動で「普通の人生を歩みたかった」と願うというのも、至極当然のことかもしれません。

一見すると、恵まれた生活なのだから不幸せなはずがないと指摘されるかもしれませんが、
才能的にも経済的にも、物質的に恵まれていたからといって、必ずしも万事幸せとは限らないのでしょう。
特にジャクリーヌの場合は、精神的に成長し切る前に単身で欧州にてチェリストとして活躍し始めたので、
例えばツアーの最中に、満足に服を洗濯する場所がなくて困った挙句、実家に服を送るなど、頼れる人がいなかった。

アナンド・タッカーはドキュメンタリー出身の人のようですが、
本作もドキュメンタリー手法をとっていて、映画の開始30分後あたりで、ヒラリーを中心にした描き方、
開始1時間を経過したあたりでジャクリーヌを中心にした描き方と、それぞれの視点で彼女たちの20代を描きます。
そのスタイルが、確かに本作の場合はハマりましたね。終盤で2つの視点の展開が合流する手法もなかなか良い。

冒頭に述べたように、映画が劇場公開されるときに色々と騒動がありました。
そういう意味では、劇中描かれたことは、タイトルにあるような“ほんとうのジャクリーヌ”ではないのかもしれません。

実際、事実がどうであったのかは私たちに確かめる術はありません。
ノンフィクションかフィクションかはこだわらず、この映画を楽しんだ方が僕は良いと思います。
ですから、ジャクリーヌ・デュ・プレの真実に触れたい目的がある人も、フィクションかもしれないと思った方が良いです。
要するに、これがノンフィクションであるか否かは、当事者の間でも賛否があるということなのですよね。

それはさておき、伝記映画としても丁度良いヴォリューム感の映画であって、出来は良いと思います。

そして、やはり演奏シーンは勿論のこと、相変わらずエミリー・ワトソンが全身全霊でジャクリーヌを演じています。
天才チェリストとして、演奏途中の動き、表情を含めて、ジャクリーヌのスピリットを見事に体現できていると思う。

こういう言い方をすると、性差別的だと言われるかもしれませんが、
どちらかと言えば、僕の中ではチェロって、男性的な楽器という先入観が強くって、
それを“弾き倒す”というイメージで操るジャクリーヌは、やはりスゴい演奏者だと思う。
そうなだけに、28歳という若さで、多発硬化症の症状を発症して、引退せざるをえなかったのが残念ですね。

(上映時間120分)

私の採点★★★★★★★★★☆〜9点

監督 アナンド・タッカー
製作 アンドリュー・ペイターソン
   ニコラス・ケント
脚本 フランク・コットレル・ボイス
撮影 デビッド・ジョンソン
音楽 バーリントン・フェロング
出演 エミリー・ワトソン
   レイチェル・グリフィス
   デビッド・モリッシー
   ジェームズ・フレイン
   チャールズ・ダンス
   セリア・イムリー
   ビル・パターソン

1998年度アカデミー主演女優賞(エミリー・ワトソン) ノミネート
1998年度アカデミー助演女優賞(レイチェル・グリフィス) ノミネート