地下鉄に乗って(2006年日本)

浅田 次郎のノスタルジー小説の映画化で、タイムスリップものだ。

これはアイデア自体は悪くないとは思うけど、正直言って、共感を得づらいストーリーだと思う。
原作もおそらくこういう内容なのでしょうけど、主人公は不倫していて、しかもクライマックスに驚愕の真実が明かされる。
その驚愕の真実とは、一般的な倫理観から言っても賛否が分かれるでしょうし、強烈な違和感があることは否めない。

映画は東京オリンピックに沸く時代に、仲が良かった長男を事故で失った次男と三男。
冷徹で頑固な父に育てられたものの、次男は父親と対立して籍を抜き、三男は実業家の父の会社に入社する。

“現代”とされる時代設定がよく分からないので、主人公が結構な年齢不詳なのですが、
妻子ある身でありながらも、女性向け衣装の販売会社でセールスマンとして勤務する主人公は、
実は会社の事務の若い女性と不倫をしていて、妻との関係はどこか冷え冷えしていて、朝帰りも常態化していた。

仲たがいした父は病に倒れたとの一報を受け、会社帰りにどうしようかと悩んでいた主人公は、
東京メトロ半蔵門線の永田町の駅で、久しぶりに中学校時代の恩師と遭遇し、事故死した兄の命日であったことを
恩師も覚えていることを告げられ、どこか運命を感じる、半蔵門線がなかなか来ないことに業を煮やして、
銀座線で帰ることを決断して、地下道を彷徨い歩いていた主人公は、地上に上がる階段に惹かれて上がると、
そこはなんと東京オリンピック開催に沸く、1964年の当時の営団地下鉄丸の内線の新中野駅だった。

主演が堤 真一ということもあってか、どことなく大ヒット映画『ALWAYS 三丁目の夕日』を想起させますが、
あの映画の二番煎じというよりも、個人的には『異人たちとの夏』の路線を期待してたんだけどなぁ〜。

結果から言えば、この映画の主人公の心情は男性目線から言っても、肯定されにくいでしょう。
浅田 次郎がどういうつもりで書いていたのかまでは分かりませんが、この映画で描かれる限りでは、
この主人公は極めて理不尽で自分勝手に見える。ある意味で、傍若無人な実業家だった父と同じ部類に見える。

しかも映画の中では、彼の妻がたった一度しか映ることがなく、
どちらかと言えば、会社の事務員の女の子との不倫に夢中になっていて、家庭を顧みる感じではない。
しかも、自宅で自分の母親が泊まっている夜に、ソファーでうっかり朝まで寝てしまって戦争の夢を見る。
戦時中に父親がどんな想いで満州の戦禍を乗り越えたかを知ると、不倫相手の女の子が近くにいて、
彼女の無事が心配になったからと言って、走って彼女のアパートへ行って、愛し合うなんて、まるで理解し難い。

この映画の作り手も、どういうことを狙って、こういう演出を施したのかサッパリよく分からない。

主人公と、彼が反目していたはずの父親と、タイムスリップして若き日の父に会うシーンは、
なかなか良いものがあるだけに、この映画のバランスを欠く不倫をメインに描くのは、僕には理解し難かったなぁ。
この辺が日本映画特有な感じもするのだけれども、こうなってしまうと地下鉄もどうでもよくなってしまう。

そもそも、タイムスリップを表現する地下鉄の前面展望映像を高速で映したりするのも、
どことなく安っぽい描写で、これも思わず「もっとマシな映像表現はなかったのだろうか?」と疑問に思ってしまった。

どうやら、映画の冒頭の丸の内線の車両は、既に廃車になっていたので撮影できなかったため、
当時の東京メトロ、東西線の古参車両に丸の内線のラッピングを施して再現する気合の入れようだったのに、
肝心かなめのタイムスリップのエッセンスになるはずだった地下鉄が、あまり有効に描かれていないのが残念だ。

出張などで東京へ行くたびに思いますが、東京という大都市にとって地下鉄って特別な存在だと思うのです。
そもそも東京オリンピックに合わせて、東京の町を縦横無尽に走っていた都電から地下鉄へと移行が加速し、
今や中心部は網の目のように路線を張り巡らし、郊外へは私鉄などに相互乗り入れにより、かなりの距離を走る。
この方式は、360°広がる住宅地から大量の通勤通学客を輸送するのに大きく貢献しているわけですね。
さすがにここまでの路線って、日本では東京以外には無いですからね。大阪もここまでではありません。

だからこそ、浅田 次郎も地下鉄を利用する通勤客に通じるノスタルジアを表現したかったのだろうし、
こうして映画化されるまで人気を博すということも分かる気がする。それは、多くの人々にとって特別な存在なのでしょう。
地下鉄の沿線の地域性を見て、住居を選ぶという人も少なくないですからね。やはり単なるインフラではないということ。

そうなだけに、この映画ももっと地下鉄を大切に描いて欲しかったなぁ。
単なるタイムスリップの道具ということではなく、もっと作り手自身の愛着を感じさせる描き方をして欲しかった。
そう、僕はこの映画を観ていて思ったのです。この映画の作り手に、地下鉄への思い入れが強くはないということを。

もう、そうなってしまうと、映画のクライマックスに明かされる驚愕の事実も、どこか拍子抜けしてしまう。
そして、主人公の“罪”に対する“罰”であると言わんばかりに、力技で無かったことにするかのような展開ですから。

どこか映画を悪い意味でブチ壊されてしまったような展開で、
思わず「オムライスにケチャップをたくさんかけてる場合じゃないよね」とツッコミの一つでも入れたくなる。
これでは、せっかくの常盤 貴子のキャスティングも勿体ないですよ。もう、結構、メチャクチャな展開ですから。

そのせいか、映画のラストもムードが今一つ盛り上がらない。
正直、『異人たちとの夏』もラストにブチ壊されてしまうのだけれども、それまでの作り込みは実に素晴らしかった。
絶妙なまでのノスタルジーで、大林 宜彦はしっかりと仕事していた印象なのですが、本作はその作り込みも無い。
前述した、若き日の父との交流は悪くないのだが、そこまで強く訴求しない。それは“現代”の病院で見舞うシーンで、
しっかりと主人公が去り行く父と対峙する姿を描こうとしなかったからだと思う。これは実に勿体なかったなぁ。

無理に観客を泣かそうとする必要はないけれども、もっと主人公の父に対する感情を
力強く描いて欲しかった。だって結局はこの映画、親子の絆について問うべき内容だと思うのでね。

そして映画のクライマックスにある、不倫相手の女性の決断もかなりの力技でビックリだ。
これは自分の存在をも否定する行動ではあるのですが、僕の中ではこの行動から響くものが無い。
浅田 次郎の原作がそうなっているから仕方ないのかもしれないが、本来であればある程度は理解される、
共感性のあるラストにして訴求するものがあるラストを飾るべき作品なのに、この強引なラストの作り方で
どだい多くの人に理解してもらうことが難しいベクトルへ持って行ってしまったようで、なんだか苦しい展開ですね。

これは仲たがいしていた父との和解の物語がメインだったのだろうし、
地下鉄という移動手段が持つ、不思議な魅力にノスタルジーを乗せて描きたかったのだろうけど、
結局は理解し難い不倫を描き、理解し難い物語の収束を図った映画に陥ってしまい、完全に作り手の狙いが外れてる。

おそらく、浅田 次郎もタイムパラドックスを描きたかったわけではないだろうし、
この映画の作り手も、映画自体をSF映画として観て欲しかったわけではないでしょう。そのせいか、作りが少々粗い。

だったら尚更のこと、僕はタイムスリップという手法で父の境遇を知るなんてことにしなくても
良かったのではないかと、映画を観終わった後に原作を否定しちゃうようなことを思ってしまったんですよね。
おそらく原作には原作なりの良さがあるのだろうけど、どうも全体にチグハグな感じが印象として残ってしまう。

東京オリンピックは高度経済成長期の真っ只中に開催され、
ここ100年以内の日本に限定して考えると、日本経済が最も元気だった時代なのは間違いないでしょう。
バブル経済に差し掛かると雲行きが怪しくなり、バブルがはじけると同時に日本経済は苦境に立たされます。

そんな元気な時代であったからこその苦労があり、中には悲劇もあったでしょう。
まだまだ、豊かな生活が定着したとは言い難く、「まだまだ良くなる」とイケイケドンドンだった時代です。

僕はそんな時代だったからこそ、地下鉄という乗り物が東京中に張り巡らされるようになり、
日本経済の台所を支え、象徴的存在となり、世界からも注目される大都市・東京の優秀なインフラとして、
この地下鉄をもっと大々的に堂々と描いて欲しかったし、単なるタイムスリップの道具ではなくって、
もっと感覚に訴える、不思議な魅力を持った乗り物として描いて欲しかった。その執着が、この映画から感じられず、
やっぱりこの映画の作り手には、地下鉄に対する強い思い入れがないのだろうと思えてしまったことが残念でならない。

(上映時間119分)

私の採点★★★★☆☆☆☆☆☆〜4点

監督 篠原 哲雄
製作 宇野 康秀
   気賀 純夫
   島本 雄二
   早河 洋
企画 小滝 祥平
   三宅 澄二
   高松 宏伸
   梅澤 道彦
原作 浅田 次郎
脚本 石黒 尚美
撮影 上野 彰吾
美術 金田 克美
編集 キム・サンミン
音楽 小林 武史
出演 堤 真一
   岡本 綾
   大沢 たかお
   常盤 貴子
   田中 泯
   笹野 高史
   吉行 和子