ファイト・クラブ(1999年アメリカ)

Fight Club

最後を観ると、「これってコメディ映画だったの!?」と思えるぐらい、
どこか間抜けなクライマックスになっているのですが、悪ふざけ感爆発の問題作。

デビッド・フィンチャーが再びブラッド・ピットとタッグを組んだ作品で、
その題材のコアさゆえか、全米はじめ、日本でも根強い人気を誇るカルト的作品ですね。
デビッド・フィンチャーの最高傑作だなんて言えないけど、最後まで辛抱強く観ると、なかなか面白い。

個人的にはカメラ目線で独白するシーン演出とか、
あまり個人的には好きではない演出も多々あると言えばあるのですが、
それでもこれだけ独創的で、エンディングに向かって、破綻しながらメチャクチャになっていく、
ある意味で世紀末感というか、歯車が狂ったかのように暴走する感覚が凄まじく、
おりしも20世紀が終わろうとしていた頃に製作された作品なだけに、時代を象徴した一作だと思う。

アングラ界の帝王と言わんばかりの象徴となった、ブラッド・ピットも素晴らしいが、
ヤング・エグゼクティヴとして無気力な毎日をただ繰り返していた、不眠症のジャックを演じた、
エドワード・ノートンにしても、彼としては虎の巻みたいな芝居ではあるけど、やっぱり凄いなぁと感心する。

自分で頭をブチ抜いても、正気を保てる姿に
「あんだけやられていても立っている。スゲー!」と言い残して立ち去るとか、
まるで『北斗の拳』のようなギャグと化しているし、どこまでデビッド・フィンチャーが真面目に撮っているかは
実に微妙なところではありますが、上手く出し惜しみしながら、ラストまで持って行くのはお見事。

この映画の映像には、デビッド・フィンチャーが色々な仕掛けを残していて、
サブリミナル効果を狙って、実は瞬間的に本編に関係の無いイメージ・ショットを挿入している。

そこまでデビッド・フィンチャーが凝った理由って、僕にはよく分からないけれども、
おそらく彼はこの映画で描かれたことは、全てが理屈で説明できることではなく、
衝動的な“何か”の連続であると思っているからこそ、映画自体に衝動性を持たせようとしたのかもしれません。
それゆえ、映画は冒頭からサブリミナル効果を狙ったとしか思えない、無秩序さが随分と目立ちます。

でも、この映画はそんな秩序の無さが魅力でさえある。
これはエドワード・ノートン演じるジャックのマインドそのものだろうし、だからこそ映画のラストが映える。

観客の五感をフルに使わせる映画と言っていいでしょう。
それは勿論、視覚的イメージは含まれて、聴覚的イメージ、場合によっては嗅覚的イメージも含まれます。
その代表がタイラーが「石鹸を作るには、人間の脂肪が一番なんだ」と言って、脂肪吸引ダイエットを行う、
クリニックのゴミ捨て場に侵入するエピソードで、別に触れなくてもいいようなシーンではあるのに、
敢えて描いたようで、こんなに醜悪なエピソードはなかなか観れないグロテスクさだろう。

しかし、それを敢えて描いた理由は、
正しく一つで、作り手は観客に視覚的かつ嗅覚的にグロいという印象を持たせるためでしょうね。
ある意味で観客に不快感を与える演出ではあるのですが、ここまで一貫性があると、逆に感心させられますね。

なかなか五感に訴える映画を撮れる映像作家って多くはないのですが、
これはデビッド・フィンチャーなりに暴走した映画ではあるものの、その暴走を支えたものって、
これだけ五感に訴えるということに固執して、映画に上手く一貫性を持たせられたことにあるわけで、
このアプローチは決して間違いではないと思うし、ジャックが迷い込んだアングラな世界を見事に演出することに
一役買っていると思えるし、何より映像としての統一感が生まれたことが、映画にとっては大きかったですねぇ。

まぁ・・・クライマックスの描写が描写なだけに、
この映画って、「9・11」の後だったら、ほぼ間違いなく上映中止に追い込まれたでしょうけど、
「9・11」直後に、この映画からの影響力を論じる人もいたけど、それはナンセンスだと思うけどな。

本作は決してテロ推奨の内容ではないし、精神的な迷路に迷い込むことの
チョットした恐怖心と、混乱を描いているわけで、これが「9・11」の発生を触発したのであれば、
他にもテロ行為を描いたアクション映画はいっぱいありますからねぇ。それらも、一つ一つ論じなければならない。

それよりも、ジャックが冴えない毎日に不眠症に陥り、
自分の理想像をタイラーという男に反映させたのであれば、タイラーが発想した、
自分の「軍隊」を作り上げるということの願望自体も、ジャックの潜在的な願望だということの裏返しだ。

しかし、人間とは実にあまのじゃくなもので(笑)、
そんな理想を描いていたはずのジャック自身が、その妄想を食い止めなければと葛藤する。

よくよく考えてみれば、これらって理屈では説明がつかない行動であって、
おそらくデビッド・フィンチャーが本作を通して描きたかったことって、正しくこれではないかと思う。
そしてジャックが願ったこととは、何故だかよく分からないけど、自分の別の人格が末恐ろしい計画を立て、
正しくテロ組織を結成する暴走をしてしまったけれども、彼自身はそれらを正そうと思うものの、
もはや単独の力では全て解決するには至らず、むしろ彼は全てをリセットすることを望んでいたかのよう。

これはまるでジャックがゲーム感覚で生きているようでもあるのですが、
ひょっとすると、これはこれでゲーム感覚で生きることに対する否定であって、
ラストシーンはそういった否定を、むしろ破滅的なクライマックスにすることによって、強調している気がします。

そういう意味で、ブラック・コメディ調の映画に観えても、
デビッド・フィンチャーって、生真面目なディレクターだなぁと実感させられる面が残っているんですね。

まるでデビッド・フィンチャーは「こうなっちゃったら、遅いんだよ」と言わんばかりで、
既成概念を敢えて打破して、新たな時代の到来を望んでいるかのようなラストシーンに観えなくもありません。
そこにやはり精神的に破綻していたマーサという自殺願望の女性を立ち会わせるというのも、実に意味深長。

カルト映画扱いされるのも、個人的にはどうかと思うのですが、
本作が劇場公開された頃をよく覚えていますが、本作は当時から大きく話題になっていました。
劇場公開から既に15年は経過しているにも関わらず、未だその影響力が衰えぬあたりに、
この映画の価値の高さを象徴していると思いますね。まずまずの出来と言っていい作品だと思います。

(上映時間139分)

私の採点★★★★★★★★☆☆〜8点

日本公開時[PG−12]

監督 デビッド・フィンチャー
製作 アート・リンソン
    シーン・チャフィン
    ロス・グレイソン・ベル
原作 チャック・パラニューク
脚本 ジム・ウールス
撮影 ジェフ・クローネンウェス
編集 ジェームズ・ヘイグッド
音楽 ザ・ダスト・ブラザーズ
出演 ブラッド・ピット
    エドワード・ノートン
    ヘレナ・ボナム=カーター
    ミート・ローフ・アディ
    ジャレット・レト
    ザック・グルニエ
    ピーター・イアカンジェロ
    デビッド・リー・スミス

1999年度アカデミー音響効果編集賞 ノミネート