華氏451(1966年イギリス・フランス合作)
Fahrenheit 451
フランス映画界の鬼才フランソワ・トリュフォーがイギリスに渡って撮った異色SF映画。
これは当時観ても、製作から60年近く経過した今になって観ても、どこか違和感溢れる内容ではあるのですが、
レイ・ブラッドベリの原作の映画化ということもあり、フランソワ・トリュフォーも相当な苦労を重ねて撮った作品のようだ。
これは良く出来ていると思うし、ニコラス・ローグの特徴的なカメラも抜群に素晴らしい。
映画は思想統計の強烈な政策として、活字が一切排除された近未来の社会を舞台に
違法に書物を保持して楽しむ人々を、密告情報をもとに火炎放射器を持って焼却する“消防士”ならぬ、
“焼却士”を勤め、上司から従順な仕事ぶりが高く評価され出世を約束されたモンターグを主人公に、
無機質で無感情的な妻との二人暮らしに違和感を感じつつ、通勤で利用するモノレールの中で出会った、
妻にソックリな女性に触発されて、焼却対象であった書物への興味が燃え始めたモンターグは
やがて自宅に書籍を隠し始め、夜な夜な孤独に書物を読み漁るようになる姿を、独特な映像感覚で描きます。
どうやら劇場公開当時、あまりにフランソワ・トリュフォーがそれまで撮ってきた作品とは
系統が異なったせいか、評論家連中から酷評されてしまったそうなのですが、いやはやこれは傑作だと思いますよ。
試験線用に建設されたというモノレールを使って撮影したり、家の壁にはめ込んだプラズマテレビのような
薄型テレビなんかは、現代の姿を的確にデザインしていることに驚かされるし、色々な示唆に満ちた作品だと思います。
主人公のモンターグを演じたオスカー・ウェルナーの無表情で色白な感じが、なんとも絶妙な存在感で
実質的な相手役となった妻リンダと、モノレールで出会う女性の二役をこなしたジュリー・クリスティも
如何にもSF映画のお人形さんのようなキャラクターで、本作のイメージでピッタリで実に良いキャスティングだと思う。
フランソワ・トリュフォーは故国フランスで、ヌーヴェルヴァーグ≠ニ呼ばれるニューシネマ・ムーブメントで
旋風を巻き起こした名匠ですが、英語を全く話すことができなかったために、本作の撮影現場でもキャストや
撮影スタッフとの意思疎通にかなり苦労したようで、フランソワ・トリュフォー自身も相当なストレスがかかったようだ。
まぁ、それでも本作は十分に彼自身が描きたかったことが、視覚的に巧みに表現できていて、
終始どこか寒々しい無感情的な空気で支配していることに、徹底した統一感があって実に素晴らしいと思います。
勿論、映像技術としてさすがに1966年という時代なので限界がありましたから、
現代の感覚で観ると、チープ過ぎる映像センスと世界観に映るかもしれませんが、当時出来る限りの工夫を凝らし、
独特な近未来の世界観を表現しようとする作り手のアプローチが強く感じられる仕上がりで、これは感心させられる。
最近では、なかなか映画の中で得難い“映像体験”と言ってもよく、レイ・ブラッドベリの原作の雰囲気もよく分かる。
そもそも、フランソワ・トリュフォーは大SF嫌いを公言する映画人であり、
「宇宙やロボットをメインテーマにした映画は生理的に嫌悪する」と公言していただけあって、一風変わった映画に
仕上げているが、彼自身が嫌悪するファクターは一切登場させずに、それを人間が表現するという徹底ぶり。
そう、この映画で登場するキャストのほとんどが、まるでロボットのようである。そこは違和感でいっぱいなのですが、
映画を最後まで観ていると分かりますが、別に彼らはロボットというわけでも、ミュータントでもありません。
強烈な管理社会に支配されていて、精神状態が正常ではないような気がしますけど、彼らは紛れもない人間です。
そんな社会にマインドが完全に支配され、非人間的な日常が普通であり、それが幸せであると
まるで体制側から洗脳されたような状態なのですが、彼らは日々をただこなしているだけという日常なのです。
書物どころか活字がない社会なわけですから、簡素な記号や数字、色分けで識別されているだけで
実に無味乾燥な0か1かの世界しかありません。つまり多様な人間を生み出すことに、リスクを感じているのです。
当然ですが、多様な人間性があれば、少数派の強烈な意見や犯罪志向を持つ者だって生まれます。
体制側の言う、“反社会分子”もある一定割合で生まれることは、これは避けられないことなのでしょう。
しかし、そのリスクを許容しないとなった結果、この映画で描かれた強烈な管理社会が実現したわけで、
思想を徹底して統制することで、多様な人間性を認めずに“反社会分子”を抑え込むことに表向きは成功したわけです。
しかし、規制されればされるほど、それを面白く思わない人々は出てきます。
これはごく自然な流れなはずなのですが、こういう人物の登場は体制側は歓迎するわけがなく、
徹底して粛清するムードを醸成しています。それゆえ、社会は分断され、独自のコミュニティを形成する人が生まれる。
やはり何度観ても強烈なのは、“焼却士”がガサ入れで突入した家にいた本を愛する女性が
火炎放射器で焼かれるくらいならと、自ら本の山の真ん中に立って、火を放つシーンがインパクト強い。
規制された挙句、他人に燃やされるくらいなら・・・と言わんばかりに、本との心中を選択するなんて、もうホラー。
それだけではなく、映画の序盤にあるモンターグの妻リンダが謎に興じる、
テレビ番組で2人のキャストである中年男性が、意味不明な会話を繰り広げて、「リンダはどう思う?」と
目を大きく見開いて問いかけてフリーズする、というのもどこか怖いし、それに上手く答えられないリンダというのも、
まるで「彼女はロボットなのか?」と疑いたくもなるのですが、どこか人間らしさに欠けていて怖いくらいだ。
この映画はこういった徹底ぶりが素晴らしく、フランソワ・トリュフォーは実はSF好きなのかもしれないと思った(笑)。
描かれる世界も、登場人物の多くが表情に乏しく無表情。描かれる人間たちが、まるで機械のようだ。
原色が目立つ色の使い方で、まるでデジタルの世界のように視覚的にハッキリとしていて、中庸な感じがない。
これらの統一がフランソワ・トリュフォーの徹底したところで、このアプローチはSFをよく研究していた証拠に思える。
だいたい、あのモノレールにしても駅を作らないで、バスのように道の真上に車両が停まって頭上から自動で
タラップが降りてくるなんて、まるで宇宙船みたいな発想ですものね。あんなタラップ、怖くて僕は嫌ですけどね(苦笑)。
思想統制が厳しく書物、と言うか字を書くことが禁じられた世界なわけですから、
文字を書くことも読むこともできない人間が量産された世界というわけです。どうやって意思疎通を図るのか、
どうやって文化を未来へ残していくのか、など色々な疑問が湧いてくるのですが本を禁じるということは
多様な考え方を許容しないということに他ならないので、すぐに反逆分子が誕生する社会というわけですね。
だからこそ、映画の冒頭はお約束のオープニング・クレジットが無くって、全てナレーションで語られます。
これは字そのものが禁止された世界を描いた映画であることの裏返しであり、一種独特な雰囲気から始まります。
主人公のモンターグは映画の序盤では、優秀な“焼却士”として上司から出世を約束されますが、
その上司曰く、「誰しも一度は本に対して興味を抱くものだ」と言い、本の魅力に取りつかれたモンターグに
敢えて自分の本を、自ら焼却するように強要するのですが、これがトンデモない事件を引き起こしてしまいます。
事件を起こした結果、“お尋ね者”になったモンターグは気付けば“本の人”がいる森に逃げ込みます。
本を禁止され、片っ端から焼かれることに対抗するために、好きな本を完全に暗記するという最強の対抗策。
どんなことをやられても人間の頭の中までは操作できないと言わんばかりの対抗策で、
フランソワ・トリュフォーなりに達観したところがあったのかもしれないが、やはりSF映画らしいラストだと思う。
レイ・ブラッドベリの原作の映画化という制約もあっただろうが、これはフランソワ・トリュフォーの解釈もあるでしょう。
とってもシュールな光景を捉えたラストであったけれども、これはエモーショナルなラストだと思う。
主演のオスカー・ウェルナーと、監督フランソワ・トリュフォーの仲も悪かったようで、
それはそれで大変だったようですが、オスカー・ウェルナーは私生活でもアルコール依存症が酷く、
当時はフランソワ・トリュフォーの監督作品などで期待される存在でしたが、本作以降は低迷していきました。
そういう意味では、オスカー・ウェルナーの代表作は61年の『突然炎のごとく』か本作になるのかもしれませんね。
やはり彼にとってはフランソワ・トリュフォーとの確執が、彼のキャリアに大きな影響を与えたのかもしれません。
(上映時間112分)
私の採点★★★★★★★★★★〜10点
監督 フランソワ・トリュフォー
製作 ルイス・M・アレン
原作 レイ・ブラッドベリ
脚本 フランソワ・トリュフォー
ジャン=ルイ・リシャール
撮影 ニコラス・ローグ
音楽 バーナード・ハーマン
出演 オスカー・ウェルナー
ジュリー・クリスティ
シリル・キューザック
アントン・ディフリング
ジェレミー・スペンサー