氷の接吻(1999年アメリカ)

Eye Of The Beholder

83年にイザベル・アジャーニ主演で映画化されたフランス映画『死への逃避行』の再映画化。

ハリウッドでも当時、人気絶頂にあったアシュレー・ジャッドをヒロインに据えて、
連続殺人鬼である美人な犯人の虜になってしまった諜報部員が半ばストーキングしながら、
犯人を追跡していく様子を、時にサスペンスフルに、時にロマンティックに描いたサスペンス映画。

正直言って、僕にはこの映画の魅力が最後の最後まで、よく分からなかった。
賛否が分かれ易いタイプの作品ではあると思いますが、もっと上手い撮り方があったのではないかと思う。
監督は『プリシラ』という異色作で評価されたステファン・エリオットで、方向性の定まらない作品になってしまった。

まぁ・・・ユアン・マクレガー演じる“アイ”こと諜報部員と、彼に追跡されていることに
映画の終盤まで気づかずに、世の男たちを翻弄しては深入りする前に殺害してしまうヒロインとの間に
微妙な恋愛感情とも解釈できる心の揺れ動きを描いたという点では、他作品との差別化にもつながる特徴は
あるのだけれども、今一つ2人の恋心を描くというほど肉薄し切れておらず、恋愛映画としても物足りない。

映像表現としては、音楽を有効に使って、“アイ”の届かぬ想いを表現したシーンはありますが、
これだけで2人の交じり合わない恋愛を表現したと言うには、あまりに不十分なアプローチでしょう。

“アイ”から見れば、ボスの息子が何者か分からぬ女性に大金を貢いでいる謎を解くという、
いつもの任務とあまり変わらない気持ちで引き受けたところだったのだろうが、思わぬところでいきなりヒロインが
ボスの息子に襲いかかったことで、予想だにしない追跡劇が唐突に始まります。そこからは、“アイ”が彼女を尾行して、
次第にヒロインに想いを寄せていく姿を描いているのですが、微妙なのは、“アイ”がストーカーに見えるところだ。

“アイ”は複雑な過去を持っていることが映画の前半で語られており、
しきりに離れて暮らす、愛する娘の幻を見ているように、精神的に不安定な部分があるという設定です。
それを裏付けるように、所属する部隊の指示役である女性陣からも“アイ”が生きているかも、心配されているくらいだ。

第1回映画化作品の『死への逃避行』では、どんなニュアンスで描かれていたかは分かりませんが、
本作は“アイ”のヒロインに対する想いは、かなり直接的に描かれており、ストイックさの欠片もありません。
この辺はハリウッド流の描き方をしたということなのかもしれませんが、表現が直接的だからこそストーキングっぽい。

いくら諜報部員だからとは言え、ヒロインが行く先々で、何故にあんなにいとも簡単に監視カメラを付けて、
ヒロインの私生活を覗き見できるのかも不思議ですが、四六時中見張っているのだから、内偵の域を超えている。
そこに映画の後半ではFBIや警察も関わってくるのですが、そこを“アイ”が邪魔するから、余計に混沌としてしまう。

この辺の“アイ”の行動は説明が完全につかない部分もあるが、
単に映画をかく乱するという観点からは、悪くない着想点だと思うのですが、いかんせん“アイ”がストーカーっぽく
見えてしまうというのは、映画として大きな難点になってしまったように思う。もっと賢く描いて欲しかったですね。
だって、“アイ”のヒロインに対する執着はスゴいと思いますよ。危険を顧みずに、何年も見張っているのですから。

そう、この映画、もう一つ気になったのは時系列の流れがとても分かりづらいことですね。
おそらく映画のストーリーを追っていくと、これは年単位の物語だと思うのですが、その辺の説明が一切ありません。

なんせ、ヒロインは“アイ”のボスの息子を襲った後に、長距離列車で声かけてきた男を殺め、
警告しに来た刑事もアッサリと殺害し、全盲の大富豪と結婚して交通事故によって悲しい別れをして、
田舎町で声かけてきたヤバい雰囲気の若い男にカラダ目的でナンパされ、気を失って薬物を注射されてしまい、
命からがら病院へ駆け込み、終いにはアラスカ州へ逃亡して、2ヶ月後に勤務するカフェに“アイ”が来るのですから、
それはそれは目くるめく大冒険なわけでして、どう軽く見積もっても年単位に及ぶ大追跡劇なはずなのです。

僕はもう少しこの映画は時間軸を意識して作った方が良かったと思う。時間軸がよく分からない内容で、
全体的にラフ過ぎたことが最後まで足を引っ張ってしまった感じで、ラストの味わいに時間的要素が加わっていれば、
もっとラストシーンの切なさ、どうあがいても交わることがない“アイ”とヒロインの数奇な関係を表現することができた。

その方が映画のスケールを全面に押し出して展開することができたし、
単純にストーリーを理解するという点でも、観客に分かり易い映画の骨格を作ることにつながったと思う。
その点、本作は複雑なニュアンスを持った映画という基本コンセプトにこだわったのか、どこか悪い意味で不親切だ。

せっかく、“アイ”が理屈ではなく、ヒロインの不思議な魅力にすっかり魅せられて、
地の果てまでも追っていくという、ストーカー根性丸出しな恋心をセンシティヴに描けているだけに、
それらをサポートするような時系列の整理など、映画のシークエンスに関する納得性、及び映画全体の構造を
分かり易く伝えるということは、もっと作り手は意識した方が良かった。その方が映画が目指したものもハッキリした。

アシュレー・ジャッドはこの頃が彼女の人気もピークでした。
日本でも某車メーカーのCMに出演したり、露出が多かった時期もありましたが、21世紀に入ると勢いが消失。
同じ頃にブレイクしたアンジェリーナ・ジョリーらのように、息の長い人気女優というわけにはいきませんでしたが、
どうやら映画よりもテレビドラマに活躍の場を求めていたようでして、細々と映画出演も継続しているようですね。

変装して逃げ回る彼女も悪くはないのですが、アラスカ州に行ってからの少々くたびれたような佇まいで
カフェのウェートレスを勤めている彼女の姿も印象的ですね。個人的にはもっと映画女優として活躍して欲しかったなぁ。

やっぱり、こういう映画を成立させるためには、もっと繊細な描写に徹さないとキビしいだろうと思う。
“アイ”がヒロインを追い求める動機に理屈など無いとは思うけれども、それでも彼女のどんな背景が、どんな仕草が
“アイ”のような寂しい生活を送る男が惹かれることになるのか、それくらいはハッキリと描いた方が良かったし、
特に映画の終盤にある、アラスカ州のカフェでの2人の駆け引きなんかは、もっと細かく描いて欲しかったなぁ。

どこか少し大雑把というか、“アイ”がヒロインにさり気なく送り続けたサインに気づくスタートが、
仲間の別なウェートレスが食器を落としたことでヨーイドン!の合図というのは、少々強引過ぎるように見えた。
ラストもどこか物足りない。過剰に描かないことが良さだとも思うのだが、もっと訴求するものが欲しかったなぁ。

この辺はステファン・エリオットの演出を見ると、もっと力量が高いディレクターではないかと思えるだけに、
もっとレヴェルの高い構成を期待したくなってしまうのですよね。もっと作り込んだ雰囲気を作ることもできるのでしょうし。

それから、何を狙ったのかよく分からない、この邦題にも意図を問いたい。
少なくとも、この映画の中身を反映した邦題とは言い難く、92年の『氷の微笑』をモジっただけとしか思えない。
でも、本作自体に『氷の微笑』のようなセンセーショナルさはないし、そもそもベクトルが全く異なる作品である。
これは日本の映画会社もよく考えて欲しかった。これならば、オリジナルの『死への逃避行』のままで良かったです。
(その方がオリジナルにも、もっとスポットライトが当たったはずなのに・・・)

確かにこの映画のクライマックスは多様な解釈を呼ぶ、ミステリアスなラストではあります。
映画の序盤から、しきりに“アイ”が別れた妻に一方的に奪われた娘の存在がクロスオーヴァーしますので、
“アイ”自身が思わずヒロインのことを、自分の娘と重ね合わせて見てしまうほど、精神的に病んでいたので
ヒロインが自分の娘である、つまり彼女を追跡すること自体が“アイ”の幻想であるかのような解釈もできなくはない。

ただ、そのミステリーに魅力を感じるほど、映画がアピールしていない。
このラストに議論が沸き起こることこそ、本作の作り手が期待するところだったのではないかと思いますが、
結果的に作り込みの甘さが、最後の最後まで足を引っ張ってしまった印象がありますね。これは勿体ない。

ちなみに、途中でアシュレー・ジャッドの入浴シーンがありますけど、これはたぶん“ボディ・ダブル”ですね。

(上映時間101分)

私の採点★★★★☆☆☆☆☆☆〜4点

監督 ステファン・エリオット
製作 ニコラス・クレアモント
   トニー・スミス
原作 マルク・ベーム
脚本 ステファン・エリオット
撮影 ギイ・デュフォー
衣装 リジー・ガーディナー
編集 スー・ブライニー
音楽 マリウス・デ・ブリーズ
出演 ユアン・マクレガー
   アシュレー・ジャッド
   パトリック・バーギン
   K・D・ラング
   ジェーソン・プレーストリー
   ジュヌビエーブ・ビジョルド
   チャールズ・パウエル