ダーティハリー(1971年アメリカ)

Dirty Harry

それまでは西部劇スターとして色合いが強かった、イーストウッドの代名詞となった人気刑事映画シリーズの第1作。

時代はアメリカン・ニューシネマ期でした、本作はそういう感じではなく何か反体制的なメッセージや
反社会性をテーマにした作品というよりも、アメリカが考える正義とは何なのかを、あらためて問うような作品と思う。

監督はイーストウッドの師匠である、名匠ドン・シーゲルで本作でも実に味わいある演出を見せている。
随所にどこかヒリついた緊張感を感じさせたり、一匹狼で捜査にあたる主人公ハリーの行動をドキュメントしていく。
70年代は刑事映画ブームだったので、本作もその代表作の一つではありましたが、イーストウッド流の正義というか
悪を野放しにするとどうなるか?ということを、凶悪犯“サソリ座の男”との対決の中でストレートに描き出します。

個人的にはこの映画、何度観ても、面白いは面白いんだけ、ラストシーンがどうしても好きになれない。
縦割りなセクショナリズムに限界を感じるハリーなのは分かるけど、彼は彼の信念でやり続ける刑事でブレないだけに
最後に刑事バッジを投げるというのは、ハリーのキャラクターをデフォルメする上で、僕には余計に感じられた。

主人公ハリーの一匹狼ぶりも良いのですが、本作の魅力となっているのは狂気じみた“サソリ座の男”を演じた、
アンディ・ロビンソンの凄まじい悪役ぶりだろう。彼が演じた“サソリ座の男”は映画史に残る傑出したキャラクターだ。

映画も冒頭から、この“サソリ座の男”がビルの屋上から、違うビルの屋上のプールで泳ぐ女性を
ライフルで狙う様子から始まり、そこから実に手際良く犯行に及ぶのですが、この“サソリ座の男”の犯行には
もっともらしい動機は無く、特に理由なく次々と犯行予告を行って、殺人を楽しむかのように繰り返す異常者である。

“サソリ座の男”はサンフランシスコ市長に脅迫状を一方的に送り付けて犯行予告し、
市長をはじめとする警察は新聞の記事を使って、“サソリ座の男”に返答することを繰り返すが、犯人を特定できず、
それを察してか“サソリ座の男”の犯行は徐々に大胆になっていき、ハリーは後手に回る捜査に苛立ち始めます。

多額の現金を“サソリ座の男”に渡す決断をしたサンフランシスコ市長は、ハリーにお金の引き渡し役を任せる。
ここからが本作の見どころの一つではありますが、サンフランシスコ公衆電話めぐり≠させられるシーンになり、
“サソリ座の男”がハリーに次々と制限時間と次の公衆電話を指定して、ハリーを急がせるというスリルを描きます。
似たようなシーンを他の映画やテレビドラマで観た気もしますが、本作の流れは素晴らしく、さすがはドン・シーゲル。

本作でイーストウッドが作り上げたハリー・キャラハンは刑事映画の歴史に残る名キャラクターになりました。
73年に本作の続編が作られて、最終的には第5弾まで製作されイーストウッドの代名詞的シリーズとなりました。

“サソリ座の男”の挑戦状を受けることになったハリーから映画が始まりますが、
いきなり、ハリーが立ち寄った行きつけのカフェで食事をしようとしたところ、たまたま銀行強盗と遭遇して、
食事もままならないまま、逃走しようとする犯人をハリーご自慢のマグナム44で銃撃して、阻止するシーンが印象的。

暴走気味に向かってくる車を真正面に正対して、強い衝撃を受けるマグナム44に耐えるためにか、
ドシッとカメラを正面に銃を構えるイーストウッドがこの上ないカッコ良さ。そして、確実に仕留めるハリーの腕前。
この辺はマカロニ・ウエスタンで鍛えたイーストウッドの真骨頂と言ってもよく、やっぱり何度観ても似合っている。
この姿を観ただけでも、本作に価値はあったしイーストウッドにピッタリな名キャラクターであったことがよく分かります。

このシーンを見ると、やっぱりイーストウッドの立ち姿がなんともカッコ良い。
ハードボイルドなところがある刑事に見えますが、市街地でド派手に犯人を仕留める姿にシビれること間違いなし。
足を撃たれたというのに、アドレナリン全開だったのかすぐに撃たれたことに気付かないというのも、ハリーらしい。

これは、やはりドン・シーゲルの“味付け”も良かったのだろうし、当時のイーストウッドは何してもカッコ良い。
そこに絶妙に絡んでくる、狂気的なアンディ・ロビンソンの悪役ぶりは素晴らしく、マスコミを使って挑発してくる。
この狂気は現代の感覚で観ても、結構なスリラーであって見劣りしない役作りであったのは、特筆に値すると思います。

ハリーは幾度となく“サソリ座の男”を取り逃がし、警察もサンフランシスコ市長も言いなりになっていることに苛立ち、
彼の信念をもとに上司や市長に言い放ちます。「理解できない。とっとと捕まえるべきだ。ヤツはまた人を殺すぞ」と。

確かに“サソリ座の男”は無差別殺人の犯人であり、市長宛てに脅迫状を送り付ける異常者である。
そんな異常者を野放しにするなど、通常ならあり得ない選択だ。そこでハリーが“サソリ座の男”を痛めつけたところ、
逮捕したにも関わらず不当逮捕であると判断され、“サソリ座の男”は釈放されて、ハリーは担当を外されてしまう。
結局は怪しかろうが、法的手続きや人権が優先されて、今にも悪事を働きそうな奴を検挙することができない。

それどころか、自分に手が及ばないことを悟った“サソリ座の男”はマスコミを使って挑発してくる始末。
ハリーの正義からすると、“サソリ座の男”が凶行に出る前に仕留めるべきとの考えで、ずっと彼をマークし続けます。

本作が製作された70年代前半は、アメリカン・ニューシネマ期の真っ只中であり、
確かにドン・シーゲルの本作のタッチは、僅かながらもアメリカン・ニューシネマの影響を受けていると言えるかも。
但し、本作で描かれていることは、そこまで強いメッセージ性があるわけではなく、反体制的な内容とも言えない。

内容的には、どちらかと言えば対極的なものであって、
どちらかと言えば、チャールズ・ブロンソンの『狼よさらば』かの如く、“目には目を。歯には歯を”ばりに自警的だ。
もっとも、ハリーは刑事なので当たり前と言えば当たり前ですが、やられる前に予防的に抑えるべきという発想です。
これは少々、社会性あるメッセージであって、少なくともこの第1作はややアメリカの保守的な思想が色濃く反映される。

おりしも刑事映画がハリウッドでもブームであった時代であり、同じ年には『フレンチ・コネクション』も製作されている。
僕は圧倒的に『フレンチ・コネクション』に触発されたわけですが、本作からは強い衝撃を受けることはなかった。
『フレンチ・コネクション』の主人公ドイルって、ほぼほぼ野生の勘だけで動いていて、一つ一つの行動に理由はない。
ただただ本能の赴くままに、まるで野良犬のように走り、悪党を追い詰める。そこに彼の主義主張も無いわけです。

僕はそんな、まったく理路整然としていない混沌として、動物的な行動をドキュメントしたところに惹かれたのですが、
本作は『フレンチ・コネクション』よりはずっとスマートで、洗練された内容であり、極めて人間的な映画であると思う。
『ダーティハリー』には『ダーティハリー』なりの良さは間違いなくあって、見事なエンターテイメントに仕上がっている。

単純比較はできないですけど、『フレンチ・コネクション』と本作はまるで対照的な作品だなぁというのが僕の本音。
刑事映画というカテゴリーでも、これだけ対照的な映画がそれぞれ同じ年に名作として扱われているのだから、スゴい。

そして、何と言っても本作はラロ・シフリンのジャズっぽい音楽が実にスタイリッシュでカッコ良い。
特に“サソリ座の男”がライフルに付いたスコープでターゲットに狙いを定める様子などは、実に象徴的な効果がある。
“サソリ座の男”自身が感じる緊張も勿論のこと、今かと殺人が行われようとする緊張感が忘れられませんね。

本作はシリーズ化されて5作目まで作られましたけど、やっぱり本作がベストな出来かな。
そこそこ続編も頑張ってはいるし、イーストウッドの代名詞になるだけあってインパクトは強い作品ばかりですが、
それでもこの第1作のインパクトには及ばない。何より敵対する悪党が“サソリ座の男”に誰も敵わないのですよね。

連続猟奇殺人事件の捜査にスポットライトを当てたかと思いきや、さすがにサンフランシスコを舞台にしただけあって、
どこか猥雑で怪しげな街の表情を捉えているのには注目ですね。訳の分からない爺の自殺未遂騒動に出動させられ、
ハリーが鉄拳一発で解決しに行くというのも、ハリーが“サソリ座の男”を追って夜の丘の上を目指して歩いていたら、
突如として現れたゲイに声をかけられ、ハリーが一蹴するというのもサンフランシスコっぽい雰囲気でいっぱいだ。
(サンフランシスコはかつて“LGBTQの聖地”と呼ばれるくらい、ゲイ・カルチャーが先進的な都市でした)

とは言え、やっぱりラストがなぁ・・・という感想が自分の中では拭えない。

犯人に対して容赦しないというポリシーは一緒ですけど、ハリーには最後まで刑事であって欲しかった。
正義の限界など感じず(バッジは捨てず)に、「オレがやったことは正当だ。何が悪い?」と上司に盾突いて欲しい。
そういったハリーの強さを描いてこそ、僕は本作のカリスマ性や描いたことが光輝き、映画として磨かれたと思う。

このハリーの強さが描かれていれば、本作は間違いなく僕の中では大傑作として記憶されたでしょう。

(上映時間102分)

私の採点★★★★★★★★★☆〜9点

監督 ドン・シーゲル
製作 ドン・シーゲル
原案 ハリー・ジュリアン・フィンク
   R・M・フィンク
脚本 ハリー・ジュリアン・フィンク
   R・M・フィンク
   ディーン・リーズナー
撮影 ブルース・サーティース
音楽 ラロ・シフリン
出演 クリント・イーストウッド
   ハリー・ガーディノ
   アンディ・ロビンソン
   ジョン・バーノン
   レニ・サントーニ
   ジョセフ・ソマー