デイジー・ミラー(1974年アメリカ)

Daisy Miller

73年に『ペーパー・ムーン』で高く評価されたピーター・ボグダノビッチが
『ペーパー・ムーン』の翌年に手掛けたにも関わらず、何故だか日本劇場未公開作となった文芸ドラマ。

映画の出来はともかくとして、
どこか華やかさが無いせいか、日本では宣伝のしづらい作品だったのかもしれませんね。
当時、ピーター・ボグダノビッチが本作のヒロイン、デイジー・ミラーを演じたシビル・シェパードに
惚れに惚れてて、同棲していたためかハッキリ言って、結構、公私混同な映画と言えます。

僕はこの映画を観ていて、終盤まで何を狙った映画なのか、
もっと言うと、何を描きたい映画なのか、よく焦点が定まらず分からないままで困っていました。

コスチューム・デザインは素晴らしいし、やっぱり当時のシビル・シェパードはキレイだ。
ピーター・ボグダノビッチも公私のパートナーであることを無視してでも、彼女を被写体として
映画のヒロインとして輝かせたいとする気持ちは、ヒシヒシとスクリーンから伝わってくる作品にはなっている。

ようやっと、日本でも本作を観ることができるようになったから、
陽の目を見たわけなのですが、確かにこれは日本では売り込みづらい映画でして、
コマーシャリズムに溢れたものも、当時で言うスターが出演しているわけでもなく、
また、当時、ハリウッドで隆盛していたアメリカン・ニューシネマの潮流からも大きく逸れた作品となっては、
配給会社も宣伝しづらい映画であり、結果として日本劇場未公開作となったのは、なんだか頷ける内容です。

ピーター・ボグダノビッチという映像作家に、僕は特に大きなカリスマ性を感じてはいないし、
評価の高かった本作の前年の『ペーパー・ムーン』も、殊更に思い入れがあるわけでもないし、
正直言って、過大評価されている映画監督の一人とさえ思っていたので、かなり私的な偏見があるかもしれない。

ただ本作、僕が勝手に観る前に想像していたよりは、遥かに“まともな”映画であったことは事実です。
それでいて、どこか異様な雰囲気を持った作品でもあって、そういう側面って、いつもピーター・ボグダノビッチの
映画にはあるにはあるのですが、本作の場合はこの一種独特な異様さが、プラスに機能している気がします。

言えば、映画の冒頭からしきりに絡んでくるランドルフ少年にしても、
敢えてピーター・ボグダノビッチは、常にどこか冷めたような眼差しを送る少年を狂気的に描いている。
この強烈なまでの違和感が僕にはたまらなく、アンバランスに見えるときがあって、
メガホンを取っている監督本人が、そういう調和しない違和感を敢えて選択するデリカシーの無さが好きになれない。

でもそこは、本作に限ってはプラスに働いている。
成長の過程で精神的にも難しい年頃で、かなり早熟な姉であるデイジー・ミラーに近づいてくる男たちを、
どこか冷めた目で、どこか突き放したように、笑わない少年の一種独特さをもって、まるで睨みつけているようだ。

そして、あまりに鮮烈な印象を残すのはクライマックスを飾るラストシーンだ。

これはまるで『オーメン』のような世界観で、何故か火事が発生する墓場でのショットには
ホラー映画さながらの狂気を感じさせる鮮烈なクライマックスで、本作最大の見せ場だろう。
どこまでピーター・ボグダノビッチが意識して製作したかは不明ですが、このラストだからこそ映えた作品でしょう。

この異様なラストの雰囲気にしても、ピーター・ボグダノビッチは偶然の産物であるかのように
描いていますが、これこそが本作の大きなアクセントであり、大きな特徴であると言えるでしょうね。

ヒロインに抜擢されたシビル・シェパードは勿論、透明感ありコケテッシュな魅力もある女優さんで、
当時、ピーター・ボグダノビッチが私生活でも入れこんでいたこともありますが、さすがに光るものを感じます。

映画の中で一つの焦点となるデイジー・ミラーが夜な夜な外出するということですが、
デイジー・ミラーが上流階級の中では、男遊びが激しく、夜な夜な外出していることが有名で、
熱病と呼ばれていたマラリアに感染することを警告されており、夜な夜な単独で外出することは
感染リスクを高めることが知られていたようだ。そこをイタリアの伊達男ジョヴァネリは、夜更けまでに
薬を飲めば大丈夫と言い聞かせてデイジー・ミラーを連れ回していたのですが、彼に言わせると、
「彼女からお願いされて、夜に外出していた」のだと、ラストシーンで描かれています。

この辺りの真相は、映画の中で明らかにされていませんが、
男遊びが激しく、社交界と一線を画し、男たちを翻弄することを楽しんで生きるデイジー・ミラーを
意図してミステリアスに描くことで、映画に一つのエッセンスを加えていることは興味深いところだ。

しかし、映画としてはやっぱり物足りない。
ピーター・ボグダノビッチの演出スタイルではありますが、どこか楽天的な画面で
映画に良い意味での緊張感や煌びやかさが無いせいか、もう1ランク上の映画になり損なった感じですね。

確かにクライマックスでのランドルフ少年の睨みは利いていて、異様なまでのラストを演出することによって、
大きなインパクトが与えられていて、妙なノスタルジアに浸ったりする部分が無いのは良いのですが、
それでもどこか少しずつ物足りなく、もう少し時間を割いて、デイジー・ミラーがどうして男たちに囲まれた日々を
好んで過ごすのかについて言及しても良かったですね。ラストに「外国暮らしが長かったから」と語らせるだけでは
不十分な感じがあって、映画としてはもっとデイジー・ミラーの実像に迫る力強さが欲しかったところだ。

ピーター・ボグダノビッチにとっては、『ペーパー・ムーン』の後の監督作品だっただけに、
おそらく大きなプレッシャーだったと思うのですが、それを打破したい意図は垣間見れる作品です。

ただ、もっと“殻を破って”欲しかった。それができそうな企画だっただけに勿体ないですね。

ちなみに本作以降、ピーター・ボグダノビッチはシビル・シェパードを起用することがなく、
私生活でもパートナー関係を解消し、ピーター・ボグダノビッチは元プレイメイトのドロシー・ストラットンと交際し、
彼女の妹と3人で同棲生活を送りますが、ドロシー・ストラットンは別居中の夫に惨殺される悲劇に見舞われ、
その後、ピーター・ボグダノビッチはドロシーの妹と結婚しました。この経緯は83年に『スター80』という、
ボブ・フォッシーが監督した作品で映画化されており、ハリウッド史上でも指折りのスキャンダルとなりました。

(上映時間92分)

私の採点★★★★★☆☆☆☆☆〜5点

監督 ピーター・ボグダノビッチ
製作 ピーター・ボグダノビッチ
原案 ヘンリー・ジェームズ
脚本 フレデリック・ラファエル
撮影 アルベルト・スパニョーリ
音楽 ヴァーナ・フィールズ
出演 シビル・シェパード
   バリー・ブラウン
   クロリス・リーチマン
   ミルドレッド・ナトウィック
   アイリーン・ブレナン
   デュリオ・デル・ブレト
   ジェームズ・マクマーティ
   ニコラス・ジョーンズ

1974年度アカデミー衣裳デザイン賞 ノミネート