カプリコン・1(1977年アメリカ)

Capricorn One

これは何度観ても面白い映画ですね。
ひょっとすると、これはピーター・ハイアムズの監督作品としては最高の出来かもしれません。

映画は米ソ冷戦下、宇宙開発競争が激化する中で、
長年、アメリカの宇宙開発に尽力してきたケラウェイ博士が中心的人物となって、
世界初の有人火星探査飛行を実現させようと「カプリコン1号」を打ち上げる当日、
事前に「カプリコン1号」の欠陥に気付いて、本来であれば打ち上げ延期とするとことを、
非協力的な合衆国政府を気にしたケラウェイ博士を中心に、トンデモないことを画策する。

映画は言ってしまうと、一見すると宇宙開発をメインテーマとしたSF映画のように見えて、
いわゆる“でっち上げ”をメインテーマとして社会派一辺倒で押し通したサスペンス映画である。

ピーター・ハイアムズは脚本家としての下積みを重ねて、ディレクターとして成功しますが、
この作品以降からカメラマンとしても兼任するようになり、ある意味で職人のような映画監督になります。
正直言って、生真面目さは感じ取れるのですが、どこか映画が中途半端なことが多いので、
これといった決定打がいつも無く困ってしまうのですが、本作は色々と工夫があって面白いですね。

映画のクライマックスでは、テリー・サバラス演じる農薬散布会社のパイロットが操縦するセスナと、
宇宙飛行士を捜索する軍用ヘリの壮絶なチェイス・シーンがあり、これは手に汗握る大迫力。
当時の時代を考えれば、これは実に凄い技術だったのではないかと感心させられますね。

やむを得ず飛行士3人に協力を請ってまでも行った、
火星への疑似飛行、疑似着陸の割りには巧妙かつ用意周到に作られているのですが、
結果としてケラウェイ博士の目論見とは違う方向へ行き、今度は3人の飛行士の命が危なくなります。

ですから、映画の前半はサイエンス・フィクション性を残した映画ではあったものの、
後半は一気にサスペンスが増して、飛行士3人は必死に逃走するサバイバル劇になります。

そこへ絡むのが、70年代を代表する渋い俳優と言えるエリオット・ゴールド(笑)。
やっぱりこの時代のエリオット・グールド、なんでこの風貌で平然と女性記者をクドいて、
それが成就しそうになるのかもよく分からんくらいなのですが(笑)、こういう映画によく似合う。

正直、あんまり彼が動いた結果が伴わないんだけれども、
映画の前半にある、彼の取材を早くに止めようと思ってか、何者かが車に細工し、
彼の運転する車のブレーキが一切効かずに、市街地を猛スピードで大暴走、結果、橋から海へダイブする。
この一連の迫力ある映像にしても、70年代のニューシネマ期の刑事映画のようなテイストが実に良い。

この映画でのピーター・ハイアムズの映像に対するこだわりは素晴らしく、
やはり“でっち上げ”を映像として関係者以外を信じ込ませようとするわけなので、
この映画の作り手として、やはり映画の映像に対するこだわりも強く感じられます。

それが、まるでアポロ11号の月面着陸を思わせるような火星着陸のシーンですが、
実際はスタジオでライヴ撮影しているためか、地表に降りるところで突然としてスロー映像に加工します。
これは映画の中で実際に描かれているのですが、実は同じことが映画のラストシーンで使われていて、
あたかも感動的なラストであるかの如く、葬儀会場に参列した人々の映像は通常の撮影ですが、
途中で乱入してくるエリオット・グールド演じる記者らの映像はスローモーションであるという、ある意味で強烈な皮肉。

これはおそらく意識して編集されたものだと思いますが、
ピーター・ハイアムズなりの強烈な皮肉で、こういうラストをもってくるあたりに当時の勢いを感じます。
ひょっとすると、今の発想だったら出来ない演出かもしれません。まぁ、偶然の産物なのかもしれませんが・・・。

かの有名な話しではありますが、本作は劇場公開される際の宣伝文句が
「映画が面白くなかったら、入場料金を返金いたします」だったそうで、配給会社の自信もそうとうなものでした(笑)。

プロデューサーのポール・N・ラザルス三世もかなり主張の強いプロデューサーだったようで、
撮影現場への介入、編集への注文も多く、ピーター・ハイアムズとの衝突もあったようですが、
無事に映画を完成させ、結果として劇場公開も大成功、製作から40年以上経った今尚、十分に楽しめる内容です。

アポロ11号の月面着陸には、当時から様々な憶測を呼んでいたこともあり、
本作のアイデア自体も、おそらくアポロ11号の月面着陸に出発点があったことは否めないでしょう。
映画の撮影開始当初は、NASAも本作の撮影にほぼ全面的に協力していたようで、
撮影が進行するにつれて、映画の全容が明かになって初めて、NASAも協力を断ったという、
まるでウソみたいなホントのエピソードも残っていて、おそらく当時はかなりのプレッシャーもかけられたのでしょう。

クライマックスのセスナと軍用ヘリのチェイス・シーンにしても、
やはりかなりの大規模なロケが必要な企画であったことから、周囲の助けが必要な企画だったことは明らかです。

おそらく当時の撮影スタッフも、如何にして撮影協力をもらい、
プロダクションからの製作費を引き出すかという点に、最も苦労したのではないでしょうか?
それくらい、当時の米ソ冷戦という時代性を考えると、国際的な宇宙開発競争は激化し、
一方でアメリカ経済の冷え込みが加速していた時代ですから、風当たりは強かったのではないかと思いますねぇ。

こういう映画が製作されたのも、アメリカン・ニューシネマ期からの反動もあったと思います。
ストレートに描くと体制批判の映画になっていたでしょうけど、本作はメッセージ性よりも
もしも、宇宙飛行が“でっち上げ”だったら・・・という発想の面白さに注力した作品のように感じます。

そういう意味では、今では作れないタイプの映画なのかもしれません。
ここまでのセンセーショナル性を帯びた企画というのは、プロダクションも選択しなくなっている気がします。

おそらくは、製作費用の大部分が実際の撮影にかかってしまったこともあり、
どちらかと言えば、バイプレイヤーを集めてキャスティングにかかるコストを落とした映画という印象だが、
ジェームズ・ブローリンやサム・ウォーターストンといった、当時としてもそこまで知名度の高くはなかった、
役者たちにスポットライトが当たったことは、映画の独創性に注目が集まることに貢献したのかもしれない。

(上映時間123分)

私の採点★★★★★★★★★☆〜9点

監督 ピーター・ハイアムズ
製作 ポール・N・ラザルス三世
脚本 ピーター・ハイアムズ
撮影 ビル・バトラー
音楽 ジェリー・ゴールドスミス
出演 エリオット・グールド
   ジェームズ・ブローリン
   カレン・ブラック
   サム・ウォーターストン
   O・J・シンプソン
   ブレンダ・ヴァッカロ
   ハル・ホルブルック
   テリー・サバラス