リトル・ダンサー(2000年アメリカ)

Billy Eliot

どんな親だって、子供の夢を叶えさせてやりたい・・・ということかな。

『トレインスポッティング』の世界的ヒットあたりから、イギリス発信の貧しい労働者階級の人々の
エネルギッシュな日々を描くドラマ、若しくは貧しい生活の中に、何かしらの活路を見い出すドラマが
日本をはじめ、世界各国で高く評価される作品が次々と発表され、立て続けにヒットしていました。

本作はそういった動きの象徴的な作品の一つとも言える作品であり、
根強い人気があることから、後にミュージカル化され、世界各国で上映されたほどです。

確かにこの映画には、観客の心を強く揺さぶるだけの力があって、
いろいろなポイントをしっかりと押さえた内容になっているだけに、根強い人気の理由がよく分かる作品だ。
そういう意味では、後にハリウッドに招かれることになるスティーブン・ダルドリーの手腕の高さの現れでしょう。

驚くことに本作はスティーブン・ダルドリーの初監督作品というわけなのですが、
確かにミュージカル的アプローチを織り交ぜたというのは、チャレンジングな映画ではありますが、
基本、この監督は生真面目なディレクターだなぁと感じる。その生真面目さが良くも悪くも機能するのですが、
本作の場合は良い方向に機能しています。あまり強く文芸路線を志向しなかったのが、良かったのでしょう。

映画は1980年代前半のイギリス北部のニューキャッスルに近い田舎町が舞台。
経済的な冷え込みが厳しく、町の主要産業である炭鉱で働く父と兄は、組合のストライキに揺れている。
そんな中、半ば無理矢理にボクシングをやらされている主人公のビリーは、生まれた時からの音楽好き。
音楽が流れると自然に体が動き、無心で踊ってしまう。そんな姿にバレエとしての才覚があると目を付けたのが、
町の少女たちにバレエを教える女性で、ビリーも次第にバレエに興味を示し、彼女の教えを乞うようになります。

バレエは女の子がするという古い固定観念に捉われるビリーの父と兄は
仕事を失いかねない状況と闘いながら、ビリーがバレエに興じる姿に冷淡な態度をとります。

しかし、この映画の盛り上がりどころは、それだけ冷淡だったビリーの父親が
目の前で踊るビリーの躍動感、そして表情を見て、ビリーの才能を確信して、ビリーの夢を後押しするように
バレエは女の子の競技という古い固定観念を自ら払いのけ、ビリーの夢を認めるようになる変容そのものだろう。

病に没した妻への複雑な感情と、ビリーへの複雑な感情が入り乱れながらも、
炭鉱の田舎町での暮らししか知らないビリーの家族からすると、バレエ・ダンサーを夢見るビリーは
奇異な存在として思えなかったのだろうけど、そういった“殻”に留まることを止める変容を克明に描けている。

ロンドンへ旅立つビリーが乗る高速バスを見送りに来て、バスの座席を見上げる父と兄とは対照的に、
相も変わらず、炭鉱の掘削現場へ向かうエレベーターを下る父と兄の、浮かない表情も印象的だ。

この映画は、貧しさの中にも夢見ることの尊さと、夢をアシストして共有することが
厳しい日常生活の中で、ある種の潤滑油のような存在となりうることを描いています。
物質的には豊かになる現代社会ではありますが、世界的には貧富の差は依然とあるわけで、
こういう厳しさの中に希望を見い出すことの重要性を痛切に訴える作品として、秀でたものを感じますね。

また、スティーブン・ダルドリーの生真面目な演出が、良い意味でハマった作品だと思います。
ビリーのバレエのレッスン・シーンにしても、往々にしてレッスンの厳しさを強調しがちなのですが、
元来、踊ることが大好きなビリーという設定を大切にするように、どちらかと言えば、楽しさを根底に置いている。

一方で、ビリーの家庭は勿論のこと、田舎町の経済的に厳しい雰囲気を真正面から表現できており、
これらが上手い具合にコントラストがついていて、スティーブン・ダルドリーの生真面目さゆえに達したものでしょう。

クラッシュ=Aザ・ジャム=AT−REX≠ネど、70年代のブリティッシュ・ロックを選曲して、
ビリーの本能的な表現を描いているのですが、劇中の展開と上手い具合にリンクする選曲でしたね。
脚本がそういうことを意識していたのだろうけど、逆に曲に合わせてシナリオを書いたのかもしれませんね。

ただ単に、自分が父親に感情移入していただけなのかもしれないけど、
映画の最初は良く言えば、スゴい頑固なオヤジに見えて、悪く言えば冷淡かつ酷い父親に見える。
口で説明することが得手ではなく、何かを言われると、例え相手が自分の子供でもカッとして暴力をふるう。
現代で言うと“アウト”な親父だが、かつては日本の家庭でも、どこにでもいるタイプの父親像かもしれない。

しかし、そんな父親でも息子を愛している。認めたくない夢であっても、後押ししたい。
そんな葛藤の中から生まれた感情こそが、この映画の醍醐味なんだけれども、
父親は積極的に参加していたストライキさえも、行き場のない感情から、“自分を捨てた行動”にでる。

そこまで葛藤したからこそ、不器用ながらもビリーに愛が伝わっていくわけで、
映画のクライマックスにあるような親子の何気ない会話や、旅立ちのバス乗り場での抱擁など、
心揺さぶられるような強い親子愛を感じさせる。この映画のキー・マンは、明らかにビリーの父親でしょうね。

世評的に高く評価された、バレエのレッスンをする近所の女性を演じたジュリー・ウォルターズも印象的で、
彼女はキャリアは長い女優さんなのですが、不遇の時代が長かっただけに、本作への出演が契機になりました。
(彼女もまた、本作での高い評価がキッカケとなり、規模の大きな映画への出演が急増しました)

この映画は決してバレエのテクニカルな部分をフォローした作品ではないと思います。
私はバレエのことは分かりませんが、それよりも本作は自分を表現することの大切さを描いています。
そもそもビリーは、音楽が流れると無心で踊るようになってしまうという、生粋のパフォーマーです。
枠に囚われずに、自分の本能的な部分を思いのまま、音楽に乗せて体現しているわけで、
これはバレエの本流とは異なる部分もあるでしょう。しかし、おそらく自分を表現することは基本的なことでしょう。

ジェンダー平等の考えが提唱されている現代であるからこそ、
「バレエは女の子がやるもの」という先入観的な偏見に、違和感がある人も多くなっているとは思いますが、
かく言う自分が小学生のときに、劇団四季のミュージカルが大ヒット上映中でして、当時の学校行事で
同じミュージカルの劇をやることとなり、自分は大勢の猫のキャラクターの1人を“演じた”のですが、
親に作ってもらったコスチューム含め、当時は「こういう劇はの猫は女の子が演じるもの」という偏見があったせいか、
妙に恥ずかしく、“演じる”こと、いや、コスチュームを着用すること自体に拒否感を持っていた記憶があります。

「時代が変わった」という言葉で片付けることはできませんが、
そういった過去があることも事実であり、例えばこの映画の主人公ビリーのように、
ホントはバレエをやりたいと思っていたのに、周囲から「バレエは女の子がやるもの」と反対されて、
バレエ・ダンサーとしての道を閉ざしてしまった人もいるかもしれません。今後は子供たちが夢見ることは、
純粋に叶えられる社会環境を形成するしかありません。この場合の“環境”には、価値観も含まれるかもしれません。

誤解を恐れずに言うのであれば、誰しも偏見は持っていると思います。
それを否定すると、ウソになるように思います。人間はそう簡単に変われるものではありませんし、
ナンダカンダ言って、本音と建前があります。私は本音を優先して生きていますが(笑)、でも、建前も否定しません。

そら、大事ですよ、建前は。みんながみんな、いつも個々の本音だけを言って生きていたら、
それはそれは大変な世の中になってしまいますよ。間違いなく世界が破綻します。
つまり、その偏見があることも自覚して、偏った発言にならないよう、自分を冷静に見つめ振り返る内面を
いつも持っていたいと思ってはいるのですが、自分で自分が嫌になる瞬間も、相変わらず無くなりませんね(苦笑)。

(上映時間110分)

私の採点★★★★★★★★★☆〜9点

監督 スティーブン・ダルドリー
製作 グレッグ・ブレンマン
   ジョン・フィン
脚本 リー・ホール
撮影 ブライアン・テュファーノ
編集 ジョン・ウィルソン
音楽 スティーブン・ウォーベック
出演 ジェイミー・ベル
   ジュリー・ウォルターズ
   ゲイリー・ルイス
   ジェイミー・ドレイブン
   ジーン・ヘイウッド
   スチュアート・ウェルズ
   アダム・クーパー

2000年度アカデミー助演女優賞(ジュリー・ウォルターズ) ノミネート
2000年度アカデミー監督賞(スティーブン・ダルドリー) ノミネート
2000年度アカデミーオリジナル脚本賞(リー・ホール) ノミネート
2000年度イギリス・アカデミー賞主演男優賞(ジェイミー・ベル) 受賞
2000年度イギリス・アカデミー賞助演女優賞(ジュリー・ウォルターズ) 受賞