バック・トゥ・ザ・フューチャー(1985年アメリカ)

Back To The Future

個人的には、この映画を通して、映画とはキッカケと経験が大きいのだと思った。
最初から暴言ですが、自分的には思い入れが無ければ、スゴい映画だとは思ってなかったかもしれない。

僕は本作、かなり幼い頃に日曜洋画劇場で繰り返し放送されていた日本語吹替版を
放送の都度、観ていたのでさすがに愛着があるシリーズだ。未だにその際の日本語吹替版で観てしまいます。

だって、懐かしくて、懐かしくてたまらないし、自分の中でこれしかないから。
ロバート・ゼメキスも本作で一気にブレイクしたわけで、安心のスピルバーグのブランドの象徴的作品だ。
でも、おそらくこれが無ければ、自分の中ではそこまでの作品ではなかったでしょう。ある意味、食べ物と似ている。

これは子供心にも、何度観ても面白くてたまらない作品だ。
僕の映画に対する価値観を形成したという意味で、とても影響力の大きな作品であり、
映画に興味が無かった時代から、この映画は何度も繰り返し観ていました。それだけ自分には存在感ある作品です。

日本の文化からしても、映画の中で堂々とアメリカンなライフスタイルを表現していて、
ある種の憧れというか、幼心に「アメリカとは、こういう国なんだぁ」と実感していました。
映画の冒頭にもありますが、主人公のマーティはスケボーを使って町中をいろんな車の後部につかまって移動する。

そこでバックに流れるのが、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース≠フ The Power Of Love(パワー・オブ・ラヴ)。
彼らの代表作ですけど、勢い余ってヒューイ・ルイス本人がマーティが受ける学園祭のオーディションで
審査員の教員の一人として、拡声器で「もういい、やめろ! 音がうるさ過ぎる」と言い放つのが妙に面白い。
(なんせオーディションでマーティが演奏するのが The Power Of Love(パワー・オブ・ラヴ)なのですから・・・)

この映画が日曜洋画劇場で放送されるときは、淀川 長治さんの嬉しそうな表情の解説と
当時、必ずスポンサーとして流れていたネスカフェのCMがセットだったのが、忘れられません。

クリストファー・ロイド演じるドクの声は、穂積 隆信でなければ僕の中ではシックリきません(笑)。
でも、そんな思い入れがあるからこそ、僕の中では本作が生涯ベスト5に入るインパクトがあるのでしょう。
と考えると、大人から子供まで同時に楽しめる本作って、とっても貴重でスゴい作品だなぁと思うんですよね。

ほど良くタイム・パラドックスを絡めた作品になっていて、シナリオもとても良く書けているのですが、
映画のクライマックスで、父と母がまるで人が変わったようになっていたり、ビフにしても然りで、
上手い具合に過去と現在の整合をとりながらストーリーが組み立てられていて、何度観ても楽しめる。

ロバート・ゼメキスも84年の『ロマンシング・ストーン/秘宝の谷』で名を上げてはいましたが、
本作が世界的な大ヒットとなったおかげで、一気にハリウッドを代表するヒットメーカーになりました。
元々、学芸会のようなノリの映画を撮っていた側面はあると思いますが、本作はその全てがハマりましたね。

また、ホントは1955年の音楽の歴史が分かっていたら、もっと楽しめるのに・・・とは思う。
例えば、映画のハイライトとも言える、1955年の“魅惑の深海ダンス・パーティー”で負傷したバンドメンバーの代わりに
マーティがギターリストとしてステージに上がることになりましたが、そこで即興で Johhny B Good(ジョニー・B・グッド)を
ノリノリで演奏してダンスホールもノリノリになるのですが、ついついマーティがやり過ぎちゃうエピソードがあります。

そのマーティのやり過ぎの内容には、60年代のザ・フー≠フピート・タウンゼントのように
演奏中にアンプを蹴り飛ばすパフォーマンスや、ジミ・ヘンドリクスばりの曲芸的演奏であったり、
80年代のヴァン・ヘイレン=AAC/DC≠フような過激なステージ・アクションを展開することが含まれます。

この前衛的過ぎるパフォーマンスで、1955年を生きる学生たちを“引かせる”わけですけど、
このバンド・メンバーにたまたまチャック・ベリーの親類がいて、マーティの Johhny B Good(ジョニー・B・グッド)を
聴かせて、ある意味でロックンロールの勃興の象徴とも言える、チャック・ベリーの名曲誕生のキッカケと
なったかのようなパロディーが、古くからの洋楽ファンであれば、誰しもワクワクさせられる作りをしている。
(やっぱりロバート・ゼメキスは生粋の音楽好き、そしてロック好きなんですよね・・・)

父と母の出会いに関するエピソードがなんともキワどい(笑)。
父とマーティが入れ替わるということで、未来が大きく変わってしまうというか、自分の存在を否定してしまう
トンデモないことになってしまうのですが、映画の焦点がいつの間にかマーティの父である、
ジョージ・マクフライに如何にしっかりしてもらって、母のロレインを口説いてもらうかに焦点が移っていく。

この辺のバランスのとり方が、シナリオの良さもあって、実に上手い具合に仕上がりましたね。

この映画はマーティを演じるマイケル・J・フォックスは当然若かったですが、
ドク演じるクリストファー・ロイド以外の役者たちは、ホントはマイケル・J・フォックスとたいして変わらない年齢で、
老け役のメイクを駆使して、なんとかしてマーティの親世代であることを表現するなど、結構、苦労していたようです。
(ちなみに父のジョージ役だったクリスピン・クローバーは結構な“変わり者”であったようだ・・・)

どうやら作り手は、本作製作当時、続編を全く期待していたわけではなく、
一見すると続編を匂わせる終わり方をしたエンディングも、作り手なりのギャグであったらしい。
それにしては出来過ぎな感じもするけど、本作が大好評だったおかげで続編を期待する声が殺到したようです。

また、タイムスリップする年月が30年前という期間も絶妙なギャップだったのだろうと思います。
それも自分は生まれる前という若者が旅するのですから、色々なギャップがあって当然なのです。
しかも、両親が自分とほぼ同世代という絶妙さで、特に1980年代に生きる若者から見れば、
1950年代はかなり古臭い時代に感じられた一方、テレビの普及など“ある程度は”文明社会化している。

1950年代と言えば、85年当時の合衆国大統領だったロナルド・レーガンは俳優時代。
だからこそマーティが1955年を生きるドクに「1985年の合衆国大統領はロナルド・レーガンだ」と言うと、
ドクは「それなら副大統領はジェリー・ルイスで、ファースト・レディはジェーン・ワイマンか!」と
全くマーティの話しにとり合ってくれません。それでも、30年経てば、そういう変化が起こって然るべきなわけです。

ホントはこういうことも分かっていた方が楽しめる映画なのだろうとは思いますが、
これはノスタルジアを求めるアメリカの方々へ向けたニュアンスなので、あまり気にする必要はないと思います。
僕個人の意見としては、そういうことを分かっていなくとも、本作は十分に楽しめると思うからです。

しかし、2020年を過ぎても、僕は今も尚、本作を懐かしくたまに観て楽しんでいますが、
今から30年前にタイムスリップしても、そう驚くようなギャップは感じないのかもしれませんね。

勿論、僕自身が30年前は既に生まれていて、結構記憶が残っているということを差し引いても、
そもそものライフスタイルや生活水準が変わっていないので、革新的なものがスマホぐらいなもので、
それを除いたら当時の映像を観ても、そう驚くような変化が無いことが、大きく影響しているのかもしれません。
それは勿論、細かな変化はあるし、それらが現代社会を支えているのですが、それでもインパクトが違いますね。
やはり1990年から2020年の変化に比べたら、1955年から1985年の変化の方が遥かにデカいでしょう。

そんな着想点の良さから始まった作品ですが、企画倒れにならずに中身も充実したからこその高評価です。

個人的にはロバート・ゼメキスにはこの頃のような遊び心を、また見せて欲しいなぁ。
21世紀入った頃、一時期、実写映画を撮らないと宣言してお休みして、復活したかと思えば、
今度はどちらかと言えば、シリアスな映画を中心に活動するようになりました。でも、こういう映画ももっと観たいなぁ。

(上映時間116分)

私の採点★★★★★★★★★★〜10点

監督 ロバート・ゼメキス
製作 ニール・キャントン
   ボブ・ゲイル
脚本 ロバート・ゼメキス
   ボブ・ゲイル
撮影 ディーン・カンディ
特撮 ILM
音楽 アラン・シルベストリ
出演 マイケル・J・フォックス
   クリストファー・ロイド
   リー・トンプソン
   クリスピン・クローバー
   ウェンディ・ジョー・スパーバー
   マーク・マクルーア
   クローディア・ウェルズ
   トーマス・F・ウィルソン

1985年度アカデミーオリジナル脚本賞(ロバート・ゼメキス、ボブ・ゲイル) ノミネート
1985年度アカデミー歌曲賞 ノミネート
1985年度アカデミー音響賞 ノミネート
1985年度アカデミー音響効果編集賞 受賞