地獄の黙示録(1979年アメリカ)

Apocalypse Now

カンヌ国際映画祭でグランプリを獲得した、ベトナム戦争の闇をコッポラが描いた問題作。

今や名作に一つとして扱われていますけど、最初にことわっておきますが、僕はこの映画好きではない(苦笑)。
3時間を超える長編となった本作の再編集版(ファイナル・カット)を複数回観ていますが、それでも良さが分からない。
まぁ、他を圧倒するような迫力があるというのは分かりますけど、そこまで訴求する映画かと聞かれると、それは微妙。

マーチン・シーン演じるウィラード大尉が密命を受けて、ベトナムのジャングル地帯奥地で
任務を外れて暴走したマーロン・ブランド演じるカーツを探し出して、カーツを暗殺するという任務に就くのですが、
映画のクレジット上では主演級のマーロン・ブランドとは言え、カーツが登場するのは最後の30分のみ・・・(笑)。

どちらかと言えば、カーツを探し出すに至るまでの描写の方がしっかりと描かれていて、
映画としてはロバート・デュバル演じるキルゴア中佐が指揮する部隊と合流して、戦闘になるシーンの方が
何がなんでもサーフィンをやろうとするキルゴアの強烈なキャラクターもあって、強いインパクトが残るようになってる。

そう、個人的にはこのキルゴアを核にして映画を展開させた方が面白くなったのではないかと思えて、
正直言って、途中からカーツのことがどうでも良くなってしまう部分があって、妙にアンバランスに見えてしまった。

実際、多くの映画ファンがカーツよりもキルゴアを支持する意見を見かけるのですが、その気持ちはよく分かる。
それくらい強烈なキャラクターで、まるで戦争を楽しんでいるかのような振る舞いが、狂気的に見えてきますね。
結局、キルゴアが強烈過ぎて、その余韻が映画の後半まで続いていくせいか、終盤まで浸食している感じですね。

コッポラも『ゴッドファーザー』で世界的にも高い評価を得ることになって、悩んでいた部分もあったかもしれませんが、
ここでベトナム戦争の闇を描くことにしたのは必然的な流れだったのかもしれない。とは言え、アナーキー過ぎた。
そしてコッポラの中でも描きたいことが多過ぎたのか、どこか整理がつかず悪い意味で混沌としてしまった感がある。

撮影中のトラブルは後を絶たなかったらしく、まるでヤル気があったのか無かったのか分からないが、
マーロン・ブランドはワガママ言い放題で、カーツのカリスマ性に魅せられた報道カメラマンを演じたデニス・ホッパーは
麻薬中毒の症状が深刻化して全く台詞を覚えてこない。その他にもキャストの降板などもあり、混迷を極めたらしい。

おそらく、撮影現場でもキャストやスタッフが映画作りの一環と称してLSDなどのドラッグを常用していたようで、
コッポラ自身も相当に混乱した状態で撮影現場を指揮していたようで、途中から訳が分からなくなっていたかも。
実際、コッポラが本作のテーマを問われて上手く答えられなかったという逸話も残っており、当初、用意していた脚本も
途中から大きく改変されることになり、何をどう描きたかったのかということが、コッポラも見失っていたのかもしれない。

それくらい、混沌とした映画という見方もできるのですが、それでも戦争の現実を映そうとした痕跡はある。

かの有名なシーンで、劇中、戦地で精神的に疲弊して悶々とする兵士たちを慰問するために
プレイボーイ誌が主催してセクシーなダンスを見せるというシーンがあって、兵士たちが徐々に暴走するという
精神的に制御が利かない状況を描きます。それまでの戦争映画では間違いなく描かなった一幕ではありますけど、
これはこれで戦争の現実であり、コッポラが本作を通して描きたかったエッセンスなのだろうなぁと思いましたね。

脚色が過ぎる部分もありますが、前述したキルゴアの部隊がワーグナーを流しながらベトナムの郡部に
戦闘機で襲撃しに行くシーンが強烈なインパクトを持っていて、まるで遊び感覚でやっているかのような狂気だ。
この狂気こそが現実でもあり、コッポラが描きたかったテーマだったのだろう。こんな調子でやっているからこそ、
カーツのような違法行為は当たり前に行って、勝手に独裁体制を敷く“教祖”のような存在になる奴も誕生するのだ。

そういう意味で本作はベトナム戦争を強烈に否定しているとも解釈でき、少なくともアメリカがベトナムに対して、
行っていたことに対して批判的なスタンスを持った作品となっていて、これは劇場公開当時も話題になったそうだ。

ベトナム戦争は実質的な負け戦となってしまいましたが、そもそも戦争することに大義なんかあるのか?と
まるで戦地での日々を楽しむかのように過ごし、ウィラード大尉のように常軌を逸したカオスなマインドの中で
密命をなんとか達成しようとする姿を通して、強烈なメッセージを込めている。確かに上官からの司令であって、
カーツが戦争犯罪者であるからとは言え、同じ米兵にスパイのような任務を担わせるということも異様な構図である。

それを淡々と任務遂行するダークな面をあぶり出すことで、屈折して倒錯した世界観が高揚するように感じる。
まるで「これはホントにこういう軍人ばかりなのではないか?」と思えてしまうほど、強い説得力を帯びてくる。

映画の終盤の展開は結構、映像的にはグロテスクだ。カーツの逆鱗に触れるように身柄を拘束され、
与えられた密命もカーツに見透かされてしまったウィラードでしたが、カーツらのチョットした油断の隙を狙って、
カーツを襲撃に行くウィラード。そのような異様な緊張感の中で、牛の断頭を儀式的に行うショッキングな映像を交え、
カーツが作り出した独裁体制の異様さ、そしてウィラードの破綻した精神がシンクロするように展開されていく。
このラスト・シークエンスは悪くなかったんだけど、いかんせんここまでくるのにダラダラやり過ぎてしまった感はある。

ウィラード大尉を演じたマーチン・シーンもコンディションがあまり良くない中での撮影だったようですが、
カーツを演じたマーロン・ブランドやキルゴアを演じたロバート・デュバルの方が目立っている。それから“シェフ”と
呼ばれるヒックス演じたフレデリック・フォレストは良い味出してます。彼が本作で最も“役得”だったかもしれない。
(そりゃあ・・・最後にヒックスがトンデモないことになってしまうから、というのもあるかもしれませんがね...)

映画の中盤にベトナムの郡部に入植して開発に勤しんでいたフランス人たちと、
ウィラードが交流して、どこか挑発的な女性の不思議な魅力にウィラードが取りつかれたように魅了されますが、
アメリカの論理でベトナム戦争に大義を感じていたウィラードでしたから、まったく視点の違うフランス人の彼らとの
会話からフランス人の価値観に触れるシーンは、ウィラードにとっては相応に大きな出来事ではないかと思います。

そして、マリファナを吸ってどこか倒錯したような感覚に浸るウィラードの姿に、安らぎに似た感覚を表現する。

僕にはこのフランス人たちのエピソードを何故描いたのか、その真意がよく分からなかったのが本音ですが、
おそらく、映画の中にアメリカ以外の国の人々から見た、ベトナム戦争というものを敢えて描きたかったのだろう。
そういう意味では、コッポラなりに社会的なメッセージを込めたかったのだろう。この辺は賛否両論ありますけどね。
ひょっとすると脚本を書いたジョン・ミリアスがコッポラに脚本を勝手に改変されたと怒っていたということですから、
こういった部分のニュアンスに関わることで衝突したのかもしれません。どう考えたって、この2人、合いませんし(笑)。

まだこの頃のコッポラは映画作りに貪欲で、今には無い底知れぬ探求心を感じさせるんですよね。
それは政治的な思想信条がまるで異なるジョン・ミリアスと一緒に脚本を書いたあたりからも如実に感じられて、
敢えて思想信条が異なる人と一緒に仕事をしたのかもしれません。それが彼の原動力になると思っていたからこそ。

だからこそ、こんなカオスに映画を仕上げることができたし、当時のベトナム戦争を描いた映画のバイブルになった。

しかし、そんな強烈な映画だったからこそ、コッポラ自身にとっても反動がとても大きな映画だったのだろう。
事実として、本作以降はここまで強烈なオーラ漂う映画を撮れていない。そして、82年に『ワン・フロム・ザ・ハート』で
何故かミュージカルに挑戦して、それ以降は“ブラット・パック”と呼ばれた若手俳優を起用する青春映画を手掛けた。
これらはこれらで、僕は嫌いになれない部分はあるのだけれども、当時のコッポラのファンにとっては迷走期なのだ。

でも、そういった異種な映画ばかりにチャレンジして、自分のカラーを打破しようとしていたのは
やはり本作の反動が大きかったからではないだろうか。それは経済的にも、コッポラの作家性に於いてもです。

撮影現場は大変な状況であったらしく、コッポラも相当な苦労を強いられた作品になってしまいましたが、
やはりもう少しコッポラ自身が冷静でいられる部分があれば映画は大きな変わって、もっと良くなっていただろう。
チョットしたボタンのかけ違いのような部分が多くて、単に僕の感性とは合わないだけなのかもしれませんけど、
ただ、コッポラ自身が整理のつかないまま映画を撮ってしまい、混乱したまま編集してしまったという印象があります。

それでも、ファイナル・カットなる再編集版が製作され、3時間を超える長編として映画館で再上映されるなど、
未だにカリスマ性溢れる戦争映画として君臨する名作でもあります。そりゃ、このまま風化させちゃいけない作品だ。
単に相手兵と銃を撃ち合うだけが戦争ではなく、仲間同士でも戦ってしまうというのが、戦争でもあるのでしょう。

(上映時間153分)

私の採点★★★★★★☆☆☆☆〜6点

監督 フランシス・フォード・コッポラ
製作 フランシス・フォード・コッポラ
   フレッド・ルース
原作 ジョセフ・コンラッド
脚本 ジョン・ミリアス
   フランシス・フォード・コッポラ
撮影 ヴィットリオ・ストラーロ
編集 ジェラルド・B・グリーンバーグ
音楽 カーマイン・コッポラ
   フランシス・フォード・コッポラ
出演 マーロン・ブランド
   マーチン・シーン
   デニス・ホッパー
   ロバート・デュバル
   フレデリック・フォレスト
   アルバート・ホール
   サム・ボトムズ
   ローレンス・フィッシュバーン
   スコット・グレン
   ハリソン・フォード
   G・D・スプラドリン

1979年度アカデミー作品賞 ノミネート
1979年度アカデミー助演男優賞(ロバート・デュバル) ノミネート
1979年度アカデミー監督賞(フランシス・フォード・コッポラ) ノミネート
1979年度アカデミー脚色賞(ジョン・ミリアス、フランシス・フォード・コッポラ) ノミネート
1979年度アカデミー撮影賞(ヴィットリオ・ストラーロ) 受賞
1979年度アカデミー美術監督・装置賞 ノミネート
1979年度アカデミー音響賞 受賞
1979年度アカデミー編集賞(ジェラルド・B・グリーンバーグ) ノミネート
1979年度イギリス・アカデミー賞助演男優賞(ロバート・デュバル) 受賞
1979年度イギリス・アカデミー賞監督賞(フランシス・フォード・コッポラ) 受賞
1979年度全米映画批評家協会賞助演男優賞(フレデリック・フォレスト) 受賞
1979年度ゴールデン・グローブ賞助演男優賞(ロバート・デュバル) 受賞
1979年度ゴールデン・グローブ賞監督賞(フランシス・フォード・コッポラ) 受賞
1979年度カンヌ国際映画祭パルム・ドール 受賞