スクープ・悪意の不在(1981年アメリカ)
Absence Of Malice
この映画、今回2回目に観たのですが...初見時よりはずっと良かったように感じましたね。
初見時は正直、小難しいことを長々とやっている映画、という印象が強かったのですが、
シドニー・ポラックなりにジャーナリズムの限界について言及したようなニュアンスがあり、それなりに見応えがある。
あらためて冷静に観ると、社会派映画として描くべきことは然るべきアプローチでしっかり描いているんですね。
監督のシドニー・ポラックはアメリカン・ニューシネマ期に名を上げた映像作家ですが、
80年代に入るとどちらかと言えば、“賞狙い”と言われても仕方ないような大作志向の映画を多く撮るようになり、
85年の『愛と哀しみの果て』に象徴されるようなメロドラマ系の映画を好んで撮るようになった印象があります。
しかし、本作はどちらかと言えば、地味な内容で堅実な仕上がりと言ってもいいと思います。
映画は、マイアミの労働組合の重要人物が失踪するという事件が発生し、
捜査をするFBI捜査官のローゼンが血気盛んに強引な捜査を進め、その中で彼が主犯格であると睨んでいた
港湾地区で酒類の卸売会社を経営するギャラガーを逮捕するために、ローゼンはマスコミに捜査情報を意図的に
リークするようになり、それに乗ってしまった地元新聞社の女性記者ミーガンがギャラガーのことを記事にします。
すっかり“疑惑の人物”として有名になってしまったギャラガーでしたが、ミーガンは取材を進めるうちに
捜査の矛盾を感じるようになりギャラガーに直接接触し取材を進めるうちに、ギャラガーの幼馴染だという、
ペロンという一人の女性がギャラガーのアリバイを証明する人物であることを知るが、深い事情からペロンは
アリバイ証明に消極的であり、ギャラガーもそれを容認していた。しかし、無実を確信したギャラガーが“疑惑の人物”で
あり続けることに対する正義感が働いたミーガンは、あまり深刻に受け止めることなく、このことを記事にする・・・。
確かに本作には少しずつ足りない部分もあったようには思う。本来はもっと重厚な社会派映画になるはずだった。
しかし、そこはシドニー・ポラックの悪いクセなのか、どことなく悪い意味で軽い仕上がりになっているのは気になる。
とは言え、それぞれがそれぞれのモラルや正義感に基づいて行動している中で、
邦題にもなっている「悪意」はないものの、時にその正義感や正論というものが他人に牙を剥いてしまうことがある。
要はプロセス、物事の伝え方や順序というものを間違えると、大変なことになってしまうという恐ろしさがあるということ。
残念ながら、本作でサリー・フィールドが演じた女性記者ミーガンはそのことを、まだしっかりと理解できていなかった。
それゆえに、彼女の意図しないベクトルに物事が暴走してしまうのである。
これは現実世界でもよくあることですが、ハッキリ言って、「悪意」はないということほどタチの悪いことはない。
何故なら、本気で「正しいのに、どうして否定されるのか?」と思い込んでいるからだ。だからこそ暴走を止められない。
いや、暴走していることに気付いていないのです。でも、責任のある大人として、その暴走には気付かないといけない。
仕事には情熱や熱さを持って取り組むことは必要だとは思うけれども、
一方ではどこかで客観的に自分を見つめることも必要だろう。それが、こういう暴走を止める唯一の手段である。
こういった正義感や責任感、自身の矜持からくる暴走はなかなか他人が止めることはできない。
要するに、自分で気付かない限り終わりはないのです。本作のミーガンもギャラガーのことを報じようと躍起になり、
冷静さを見失っていました。それは彼女の上司であるデスク担当のマクダムスが彼女の背中を押したこともあるだろう。
所々で、彼女自身、冷静になろうとしている様子はあったものの、やはり新聞社とはそういうものだったのだろう。
本作はこの辺のバランスをとることの難しさをしっかりと描いており、
正しいと信じて報じたことも、例えそれが真実であったとしても、時に人を傷つけてしまう恐ろしさを描いている。
ギャラガーも報道されることを望んでおらず、メディアを介さずにローゼンに反撃を試みようとするだけに、
大衆の好奇の目に晒されたり、特に幼馴染のペロンが精神的に追い込まれてしまう事態は避けたかったのだろう。
とてもツラいシーンではあるのですが、本作のハイライトとも言うべき、
ミーガンがギャラガーの会社に弁解に訪れた際、ギャラガーがこれがどういう深刻さをもたらしたかを
怒りを持って彼女に表現するシーンが忘れられない。この行動も肯定されるものではないが、彼の言ったことも真理だ。
かつては、“飛ばし記事”と呼ばれる真実か否かの確証が持てない段階で記事にしてしまい、
当事者たちの反応を待つことが公然とマスコミの世界では行われていたようですけど、こんな無責任なことはない。
その報道が事実でなければ当然、大変なことになるわけです。当人の名誉は大きく傷つけられ、家族にも被害が及ぶ。
「火の無いところに煙は立たない」という理屈からマスコミはそういう手段を講じていたこともあったようですけどね、
マスコミの立場から言えば、事実ではないことを報じたわけではないと主張できるし、安全な立場を守れるわけだ。
しかし、本作のギャラガーも似たようなことを言ってしましたが、一度書いてしまった記事は
いくら撤回しようとも、決して無くなることはなく、永遠に記事は残ってしまう。人々の記憶にもインプットされるのです。
ネット社会になれば、延々に残り続けるわけで、その責任というものと真摯に向き合わなければならないですね。
そして事実であれば何をどう報じてもいい、ということと昨今よく話題になることは“報じない自由”ということだ。
結局、今よりもテレビや新聞の影響力が強かった時代は尚更のことだったと思いますが、マスコミの報じ方によって、
人々(世論)に与える影響は強かっただろうし、世論形成にも大きな影響を与えていたはずで、事件に対する意見は
読者(視聴者)が決めるものだと主張していましたが、それも含めて記事が影響を与えていることは分かっていたはずだ。
だからこそ、かつてマスコミの報道内容によって、事件の捜査にまで影響を与えたことがあったかもしれない。
それゆえ、本作で描かれたようにFBIのような捜査機関が逆にマスコミを利用するということもあったのだろう。
こうして、マスメディアの影響力は増し、彼らの報道の仕方次第でどうとでもなってしまう社会が形成されてしまう。
公平かつ中立的に報じるなんてことは元から期待できませんけど、マスメディアは必要な存在であるがゆえ、
いろいろなことが取り沙汰されている昨今だからこそ、その在り方を見直すべき時期にきているのだろうと思います。
初見時は僕の中でこの辺のつながりが今一つ飲み込めていなかったのですが、
チョット自分の中で観る視点が変わったのか、2回目に観たときはこの辺の事情が上手く整頓されて観ることができ、
シドニー・ポラックも描くべきことはしっかりと描いていたことに気付いた。本作はそんな悪い出来はないと思います。
シドニー・ポラックも分かっていたかどうかは知りませんが、本作はマスメディアの限界と自律性の無さを言及しており、
本作自体、かなり先見的なテーマ性を持った作品だったのですね。ハッキリ言って、映画の主旨としては事件の真相は
どうでもいい内容になっていて、ギャラガーが完全に“白”であるのか“黒”であるのかは、ハッキリとしないまま終わる。
まぁ、古くからマスメディアの暴走を描いていた作品はありましたけど、
本作ほど淡々と地味に描いた作品というのは、多くは無かったですね。そういう意味では、貴重な作品だと思います。
ただ、ギャラガーとミーガンがいつしか惹かれ合うという展開になるのは正直、違和感があった。
確かにマスコミとの距離が近づき過ぎるリスクとして表現されているのだろうけど、あまりに唐突過ぎるように感じた。
ましてやギャラガーの立場からすれば、ミーガンと色恋沙汰になる理由は見当たらず、違う目的があるように思える。
そんなギャラガーの狙いも不透明なまま映画が終わってしまうためか、正直言って不必要な描写に見えてしまう。
映画の冒頭から描かれる紙面を印刷するまでの様子を、無機質に描いていく描写は印象的だ。
かつて『大統領の陰謀』では、タイプライターの音が鳴り響くオフィスを映していましたが、本作は輪転機の映像だ。
やはりこういう様子を見ると、多くの購読者がいる新聞紙面を作ることの責任の重たさをヒシヒシと感じますね。
当然、新聞紙面は数名の力だけで作られるわけではなく、それに関わる多くの人々の力で成り立っているわけです。
だからこそ、一人のテキトーな仕事ぶりや、パフォーマンスのためだけに仕事が成り立ってはいけないのです。
やはり映画の中盤に描かれた、ペロンが毎朝各住宅の庭に投げ込まれる新聞(朝刊)を確認して、
裸足のままで駆けていって、各所の新聞を拾い集めに行くシーンは胸を締め付けられる思いにさせられますね。
そのような状況に至ったことに責任はあるのかもしれないが、それを断罪する権限はマスコミにも無いわけです。
そんな不条理な状況こそが、本作が最も強く訴求する点であり、秀でた部分でもあるのだろう。
まぁ・・・シドニー・ポラックは本作で全てを出し切ったのかな。本作以降は完全に変わってしまいましたね。
(上映時間116分)
私の採点★★★★★★★★☆☆〜8点
監督 シドニー・ポラック
製作 シドニー・ポラック
脚本 カート・リュードック
デビッド・レイフィール
撮影 オーウェン・ロイズマン
美術 テレンス・マーシュ
音楽 デイブ・グルーシン
出演 ポール・ニューマン
サリー・フィールド
ボブ・バラバン
メリンダ・ディロン
ジョセフ・ソマー
ウィルフォード・ブリムリー
ルーサー・アドラー
バリー・プリマス
ジョン・ハーキンス
1981年度アカデミー主演男優賞(ポール・ニューマン) ノミネート
1981年度アカデミー助演女優賞(メリンダ・ディロン) ノミネート
1981年度アカデミーオリジナル脚本賞(カート・リュードック) ノミネート