スクープ・悪意の不在(1981年アメリカ)

Absence Of Malice

これはなんだか難解な映画だった・・・(笑)。

『愛と哀しみの果て』でオスカーを獲得したシドニー・ポラックがマイアミの港町を舞台に、
上昇志向強くスクープを狙う女性記者が、“偶然見えてしまった”特捜班の捜査状況をスクープした結果、
アトランタで発生した殺人事件の嫌疑がかけられている酒卸業を営む男性と、事件解決に躍起になるFBI捜査官、
そして司法省をも巻き込み、大きな波紋を呼ぶスキャンダルに発展する様子を描いたサスペンス映画。

この殺人事件の被害者というのが、どうやら湾岸地区の労働組合の組合長で、
とても労働者連中の人望があったらしく、FBIもこの事件の真犯人を検挙できずに苛立っているのです。

そこでFBIの特捜班のリーダーが考え付いたのは、情報操作で真犯人をおびき出すという作戦で、
ヒロインである女性記者に故意に捜査情報を漏らし、敢えて不確かな報道をさせるのです。
それによって身内がマフィアに関わっているという理由一つだけで、容疑者のリストに挙げられたのが、
ポール・ニューマン演じるギャラガーという酒卸業を営む男で、この報道が公になってからは、
彼が雇用している労働者連中がストライキを起こしたり、取引先から手を切られたり、次第に追い詰められます。

FBIの特捜班が狙っていたのは、正にこれで、
ギャラガーが困窮することによって、何か大きな動きが起こるのではないかということ。

しかし、この報道が口火を切ったことにより、事件の取材がヒートアップし、
結局は女性記者も真相に近づこうとして、行き過ぎた報道をしてしまい、ついに犠牲者を出してしまいます。
そうなると、ギャラガーも静かな反撃を仕掛けるわけで、元々の組合長が殺害された事件の真相は遠のいてしまう。

まぁ、FBI特捜班の気持ちも分からなくはないが、
結局は多くの無関係の市民を巻き込み、挙句の果てには冤罪を生む可能性すらある、
強引な捜査の手法に、やはり一石を投じる内容になっており、多くの観客もFBIの捜査に好感は持てないだろう。

おそらく、この映画はウォーターゲート事件などを経た、激動の70年代を過ぎ、
80年代を迎えて、改めてアメリカ社会全体でジャーナリズムのあり方が問われていた時代であり、
取材やマスコミ機能の高度化によって、それまでの報道の手法から大きな変革があった頃と推察します。

シドニー・ポラックもこの映画を通して、そんな報道のあり方にメスを入れたかったのだろうし、
チョットした情報操作であっても、時に恐ろしい凶器になってしまう危険性であるとか、
それまでの時代以上にマスコミの報道が持つ力が肥大化し、より真実を正確に報道することの尊さを
この物語を通して描きたかったのだろう。それは、なんとなくこの映画を観れば感じ取れることです。

しかし、どうにも...シドニー・ポラックの監督作品って、どこがピンボケしてしまうことが多い。

この映画にしても、ギャラガーと女性記者の恋愛感情に触れる部分は、大半が胡散臭い(苦笑)。
もうどうしても、シドニー・ポラックがロマンスを描きたかったという感じがしちゃって、
どうにも作り手の導き方も強引で、ストーリーそのものに説得力が無く、どこか映画に芯が通っていない感じ。

ハッキリ言って、ギャラガーと女性記者のロマンスに時間を割くぐらいだったら、
映画の終盤のカラクリを説明する部分で、もっとしっかりと丁寧に描いて欲しかったし、
真のジャーナリズムを問う映画として、もっと力強く何かを観客に訴求する終わり方をして欲しかった。
この終わり方では、まるでメロドラマで僕は観ていて、どこか最後の最後までシックリ来るところが無かった。

映画で主張したいことは分かるし、ある意味では日本でも通じる観念的なものを描いていると思う。
でも、それにシドニー・ポラックの趣味がどうにも合っていない感じで、これではポール・ニューマンも可哀想だ。

唯一、この映画で良かったシーンと言えば、
映画の中盤で女性記者が自らの報道で犠牲者が出てしまったことに対して呵責の念を抱き、
ギャラガーがいる倉庫を訪れるシーンで、ついに悲しみに暮れるギャラガーの感情が爆発してしまいます。

僕はこういう振舞いをすること自体は肯定しないけれども、
とても人間的なリアクションであり、彼が女性記者というか、マスコミに対して憎悪していることは
しっかリ主張すべきであり、この映画で最も本作の核心に触れたシーンだったのではないかと思います。

かつてアメリカン・ニューシネマ期に活躍していた頃のシドニー・ポラックの監督作品には、
こういう人間的な部分を描いた作品があって、80年代以降のメロドラマ路線連発の作風とは異なっていました。
そういう意味で、本作は彼が初期の頃の色合いを僅かに残していた、最後の作品と言ってもいいのかもしれません。
(82年の『トッツィー』は良い出来でしたが、『トッツィー』以降は完全に路線が変わってしまった・・・)

要するに、これは「マスコミの皆さん、報道すると決めたことには責任を持ってくださいよ!」ということ。
そして無意識的なものかもしれませんが、時に情報も凶器をなりうることも主題となっているのは間違いない。

80年代以降、情報技術は発達する一方で、刻一刻と進展を遂げていますが、
進めば進むほど、最も基本的な部分が疎かになりがちだし、一体何のためにやっているのか、
その原理を忘れてしまうもの。忘れてしまうと、いつしか手段が目的になったり、大きな失敗を生む。
それも取り返しがつかないような失敗だ。それは、映画の終盤に「新聞の記事は消えないんだよ」という台詞に
集約されているわけで、一度記事になってしまうと、いくら訂正記事を掲載したところで、元の記事は消えないもの。

それで傷つけられた人が発生してしまっても、その傷はどうやっても簡単に癒えるものではない。
そういう意味では、実に不変的なテーマを扱った作品だったのですが、どうにも伝わりにくい内容になってしまった。

やはりギャラガーと女性記者のロマンスに手を出すなど、
自分のカラーを出そうとしたり、余計な欲を出さずに淡々と綴っていれば、もっと訴求しただろうし、
本作が本来果たすべき役割をしっかりと果たせなかった印象が強く、とても勿体ないことになった映画だと思います。
まだ、どこかにセクシーさを秘めていた頃のポール・ニューマンの魅力も活かせずに終わっていて、やはり勿体ない。

個人的にはポール・ニューマンがこのような被害者的な立場になる役柄というのも、
あまりピンと来なかったのですが、それでも若き日のサリー・フィールドを上手くサポートしているのがよく分かる。

少し食い足りない部分について指摘するとすれば、
この映画を観ていて、強い違和感を感じた部分はマスコミが持つ、この時代の段階でのジャーナリズムというのが、
この映画の画面にはしっかりと提示できていないところだ。これがないから、どうしても一方的な映画に観える。

例えば、アラン・J・パクラは『大統領の陰謀』で正しいか間違っているかはともかく、
彼が描きたいジャーナリズムというのは、画面の中でしっかり描けていたように思う。
それが欠如してしまっているというのは、少しアンフェアな側面に映ってしまう要因になるのは仕方ないだろう。

(上映時間116分)

私の採点★★★★★☆☆☆☆☆〜5点

監督 シドニー・ポラック
製作 シドニー・ポラック
脚本 カート・リュードック
   デビッド・レイフィール
撮影 オーウェン・ロイズマン
美術 テレンス・マーシュ
音楽 デイブ・グルーシン
出演 ポール・ニューマン
   サリー・フィールド
   ボブ・バラバン
   メリンダ・ディロン
   ジョセフ・ソマー
   ウィルフォード・ブリムリー
   ルーサー・アドラー
   バリー・プリマス
   ジョン・ハーキンス

1981年度アカデミー主演男優賞(ポール・ニューマン) ノミネート
1981年度アカデミー助演女優賞(メリンダ・ディロン) ノミネート
1981年度アカデミーオリジナル脚本賞(カート・リュードック) ノミネート