15ミニッツ(2001年アメリカ)

15 Minutes

アンディ・ウォーホールの名言でもある「誰でも15分で有名になれる」からもじったタイトルですが、
チェコとロシア出身の旅行者が、アメリカ国内で連続殺人をはたらき、精神疾患を装って無罪を勝ち取り、
そのストーリーを原作化させ、映画化の権利を売却して設けるという謎のシナリオを立てた犯人に立ち向かう、
マスコミ対応優先の有名なニューヨーク市警の刑事と、放火調査官の活躍を描いたサスペンス・アクション。

行き過ぎたマスメディアの暴走を描いた作品でもあって、
視聴率のためであれば事実をねじ曲げてでも、放送倫理を逸脱してでも、
視聴者ウケするものしか放送しない世の中が形成されたら・・・という意味で、風刺的な作品でもあります。

それにしても、この映画で何より驚かされたのは、
あの名優ロバート・デ・ニーロがファースト・クレジットで扱われる主演作品であるにも関わらず、
映画の後半さしかかったくらいの中盤で、予想外と言っても過言ではなく、アッサリ退場してしまうことですね。

思えば90年代半ばからの約10年間、デ・ニーロは数多くの映画に出演しており、
それも全てが主役級、若しくは準主役級でほぼ休みをとらずに働き続けいていたように見えます。
とは言え、本作のような扱いを受けるというのも、またビックリな話しでそれも映画の中盤で退場は驚きました。

これは僕は全く予想していなかった展開でしたので、
劇場公開当時も話題となっていましたが、あらためて観ると、この発想に驚かされる。

ですから、本作の主演は実質的にはエドワード・バーンズですね。
元々、監督業としての定評を得つつあったのですが、本作あたりから俳優業としての仕事を増やし、
2006年以降は監督作品が発表されていないことから、本作のような仕事を望んでいたのでしょうね。

思わず目を背けたくなるような残酷なシーン演出もあるのですが、
チェコとロシアからの渡航者の行動はドンドン、どんどんエスカレートしていきます。
彼らの行動のどこに大義名分があるのかも、何が目的なのか、サッパリよく分からなかったですし、
“二重処罰の禁止”を利用した彼の目論見って、上手くいかなかったときのリスクがもの凄く高く、
知能犯ではないとは言え、いくらなんでも浅はか過ぎる犯行という感じで、何だかシックリ来ない感じはありました。

劇中、描かれていた“トップ・ストーリー”という報道番組ですが、
防犯カメラなどで犯罪の瞬間を映した映像を放送することはありますが、
さすがに殺人の犯行映像を公共の電波を使って放送することなどありえないとは思ってましたが、
日本ではかつて“豊田商事”の件があったりしましたからね。あながち的外れなものではないのかもしれません。

コンプライアンスが厳しくなった現代社会に於いては、
さすがに放送倫理が厳しく問われるようになり、昭和の時代のような報道姿勢はかなり淘汰されましたが、
その代わり、ネットなどでも指摘する声が挙がっていますが、政治思想が偏った報道も散見され、
政治を監視する役割と豪語するメディアの質の低下が、日本でも顕著になっているような気がしています。
本来、報道とは事実を淡々と報じればよいと私は思っていたのですが、最近はワイドショー化してますもの。
(と言うか...ワイドショーが報道の内容を取り扱うようになった...と言った方が適切なのかも)

本作で描かれたマスメディアの暴走が、日本でも少しのボタンの掛け違えで、
すぐにこんな番組が登場してしまうよ、という教訓はあるのかもしれません。それを観てしまう視聴者も・・・ですが。

マスメディアの存在感が大きくなればなるほど、マスコミ対応というのが重要視されます。
と考えれば、本作でデ・ニーロが演じた刑事のようにマスメディアと癒着した刑事がでてきて、
半ば個人技に走るということも起こり得るでしょうし、マスコミ対応が得意な人が評価されるという時代になります。

事実、日本の企業の多くが不祥事や事故対応の際の手順として、
マスコミ対応の手順を既に用意しているというのが現実です。SNSなどネット社会が発達し、
人々が容易につながることができるからこそ、情報が一方的に発信される時代ではなくなり、
大衆が情報を選択するわけで、だからこそ発信の仕方が評価される時代になってきたということですね。
マスコミ対応のどれくらい的確にできたかで、事後の企業の処遇が決まると言っても過言ではないかもしれません。

監督のジョン・ハーツフェルドは96年の『2days/トゥー・デイズ』に続いての監督作品でしたが、
正直言って、映画の出来は良くはありませんでした。映像的なインパクトを追い求め、中身が置き去りです。

そもそもの刑事と消防署に所属する放火調査官が、一緒に捜査で行動するという設定が、
この映画を観ていても違和感がある。このギャップがどうしても埋まらないのが、いただけなかった。
終いには刑事の敵を討つと言わんばかりに放火調査官が“暴走”するのだから、もう訳が分からない。

確かにシナリオが映画の全てというわけではないので、
これだけが本作の難点というわけではないのですが、やはり前提となる条件は大事でしょう。
そのギャップを埋めようとするほど、演出の主張が強い、独特な映画というわけでもありません。
つまり、この映画の作り手にはマスメディアと殺人事件というテーマしか、目立った強みが無かったとも感じます。

また、どこか映画全体として行き当たりばったり感が否めない感じがあって、
映画の流れがキチッと作られず、結果としてクライマックスにピークを作ることができませんでしたね。

実際、この映画のクライマックスはあまりに盛り上がらなかった。
やはりしっかりとした対決シーンにしなければ、どうしても盛り上がり方が中途半端になることを実感しましたね。
百歩譲って、犯人の狙い通りになるまではいいにしろ、逃げた奴まで復讐に戻るというのは、納得性に欠ける。

個人的にはデ・ニーロはもっと引っ張って欲しかったなぁ。
さすがに「視聴率をとるためであったら、放送倫理を無視してでもどんなことでもやる」というマスコミの
餌食となったのが、デ・ニーロであるなんて...こんな扱いをしたのは、後にも先にもこの映画だけだろう。

そういう意味では、やはりクライマックス近くまではデ・ニーロに引き締め役として出演して欲しかった。
そうした方がクライマックスもしっかり盛り上がったと思うし、同じ結末にしろ映画は引き締まったはずだ。
この映画の作り手は、根本的な部分でアプローチを間違えてしまったような気がしてならないのですよね。

この内容にしては、上映時間も冗長な傾向にあって、映画が必要以上に長く感じられた。
そこで、映画の中盤で突如としてデ・ニーロが退場とくるわけですから、どうにも肩透かしが多い内容です。
せっかくのデ・ニーロとエドワード・バーンズの共演なのですから、もっと大切にして欲しかったですね。

ジョン・ハーツフェルドのチグハグな演出は、
終盤にあるエドワード・バーンズ演じるジョーディーが、チェコから売春婦ダフネを保護するシーンで、
突如として2人が衝動的にキスしようとするシーンで、これもあまりに酷い出来だと思った。
そもそも僕なら、あんなシーンを撮らないし、どうせ撮るならば、理性を振り払うぐらいの衝動性を持って、
2人が接近するぐらいの勢いが映画には必要でした。まぁ・・・そもそも描く必要があったかが疑問なのですが。。。

ちなみにダフネを演じたヴェラ・ファーミガが、06年に『ディパーテッド』でヒロインの座をゲットしました。

(上映時間120分)

私の採点★★★★★☆☆☆☆☆〜5点

監督 ジョン・ハーツフェルド
製作 キース・アディス
   デビッド・ブロッカー
   ジョン・ハーツフェルド
   ニック・ウェクスラー
脚本 ジョン・ハーツフェルド
撮影 ジャン=イブ・エスコフィエ
音楽 アンソニー・マリネリ
   J・ピーター・ロビンソン
出演 ロバート・デ・ニーロ
   エドワード・バーンズ
   クルシー・ブラマー
   エイブリー・ブルックス
   オレッグ・タクタロフ
   ヴェラ・ファーミガ
   メリーナ・カレカレデス
   カレル・ローデン
   キム・キャトラル
   シャーリーズ・セロン